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「慶応四年新撰組近藤勇始末」、「慶応四年新撰組隊士伝」著者、あさくらゆうが書いているブログです。 *なお、画像の無断使用、本来の意図と関係ない部分をツギハギして論争に使用することを固くお断り申し上げます。
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27日
10:00、起床。まだ疲れが残っています。

14:00、国立公文書館に到着。昨日のうちに調査していたものを確認しますがハズレ。まぁ、世に出てないものを探すのですから簡単にはいきません。それでも違うものをチラホラ。件名で出てこない新選組の文書があったりとチラホラと発見はあります。

16:40、同館を辞去。17:30、帰宅。

18:20、整形外科で治療。目の疲れは楽になりました。

 この間に電話がある問い合わせでしたが、ひとつ気になることが、

「本が出たらください」

んっ?なんで?買ってください。問い合わせだって親切に教えているわけで義務ではない。義理もない。こうしたいくつかのクレクレタコラをよく見かけます。常識ある方なら買わなくても「買います」とかお世辞をいうものですけど、「くれ」と言う方ほど特にお世話にもなってないし、義理もない。自身の立場で3000円の本を提供すると考えたらどうでしょう?以前、静岡移住の幕臣研究家である故前田匡一郎氏と話したことがありますが、氏も同様な御仁を何人も出会ったとか。まぁ、非常識な方はいるものです。

 ただ関係者には贈呈しますよ。すでにリスト化されています。

閑話休題、

 こんな感じで電話はいくつかと20:30まで続き食事。「なんでも鑑定団」を見てから北海道立文書館のデータを整理。けっこうな量ですからタイトル付けでもけっこうな時間がかかります。

28日
 ある程度の見切りをつけて1:00就寝。

10:00、起床。どうもお腹の具合が悪い。しかも寝てるとビィーン!!とノコギリでなにかを切るような音が響いていて不快このうえない。

 本当は国会図書館に出かけようと思ったのですが、このお腹の具合が解消しない。家でやることも多いので諦めることに。

 夕方、出版社から最後の最後?のゲラ確認が。それと弱気な文句が入っていたので電話することに。出版不況は着実に地方出版を苦しめています。もし「千葉の名灸」を発売日近くに確実に購入されたい方は崙書房出版(株)04(7158)0035までご注文ください。たぶん発売日に確実に入手できるのは池袋の「ジュンク堂書店」か神保町の「書泉ブックマート」かと思います。私が播いたチラシ(当HPトップのチラシ画像)でも書店に持っていけば注文できますが、遅いところだと1ケ月かかります。なので地方の方は送料はかかりますが出版社直接に注文いただければ幸いです。

 さすがに私の体調不良と重なってダメージは大きくクレクレタコラとも重なるとどうもいけない。つい知人に電話で相談に乗っていただいてしまいました。私の場合は利害関係者が多いのでなかなか相談事というのは出来にくいのですが、少し関連のある方でしたので話を聞いていただきました。おかげで体調以外は少し楽になりました。

 さすがに余力はあまりないので横臥が多くなり、病気に後遺症か、むくみからくる痒みで苦しみます。

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26日
 寝台列車もいつも乗る酒田あたりから揺れが少なくなりました。この辺りから睡眠し、高崎で目が覚めました。寝ぼけてるのと気分が悪いのとでウダウダしてると車内アナウンスが!これが強烈で目が覚めます。

7:02、上野駅に到着。川越線の事故により少し遅れました。ようやく東京へ着けました。やれやれ…。

 ここから常磐線に乗換え三河島で下車。ここからバスに乗車します。朝食を考えていたマクドナルドは閉店しており、朝食を諦めバスを待ちます。なぜかホームレスが佇み、バス待ちの客皆が距離を置きます。

8:00、帰宅。疲れました。早速荷を解いて土産を振り分けます。ここで嫌な汗を全身に掻いているのでお風呂に入りようやく人心地です。

 この後、北海道の滞在分をブログに記入。そしてSDカードの撮影分をパソコンへ。なにせ合計400枚弱になりますので我がパソコンのスペックに危機が到来します。たぶんひとつづつになります。

 帰宅後、木古内のサミットについてネット検索したら共同通信の効果が出て日本各地に掲載されてました。よかったよかった。

11:00、疲労から横臥。やはり熱が出ています。

14:00、少し起きて出かける準備。外は雨が。それでも根性で出発。

15:00、東京都公文書館に到着。警備の光管財は車を停めるな!と叫んでいたクセにきょうは車が停車しています。言ってることとやってることが違います。光管財の名前は自称責任者の頭の光りなのか?ウソツキですね。こういう警備会社は使わないことをお勧めします。

閑話休題、

 北海道立文書館で調べた成果を東京都公文書館のデータベースで再検証します。結果的には該当なし。仕方がないことです。これでステージは国立公文書館へと移りました。ついでに新門辰五郎関係の史料を撮影。カラー絵図が入っているのでマイクロでは限界があります。

16:40、同館を辞去。体調を考えてスーパーに寄る程度に控え18:00帰宅。

21:00より画像データをパソコンに移します。けっこうな量で時間もかかります。このうちいくつかは早々にCD-Rに移しました。残りはブログ用に使い、この作業で23:20までかかりました(汗)

 この間に共同通信より電話。けっこうな地域に木古内サミットが掲載されたことを確認。嬉しいことです。

 さすがにデータ整理もこの程度に、きょうはこのくらいにして0:00就寝。

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小畑家付近に生えるカラマツ

(前回のつづき)
2004年8月。この月の調査旅行はハードでした(汗)なにせ11日に函館空港に到着し、午後に霊鷲院に到着。ご住職よりお話を聞き、それから洞爺に出て、「トワイライトエクスプレス」に乗車。一路京都を目指します。
12日、京都で散策し、夜、寝台特急「なは」で熊本へ。13日、熊本では尾形俊太郎の調査に費やし、ここでようやく宮原(みやばる)の温泉旅館に1泊。14日は羽犬塚で1泊。久留米周辺の史跡を巡りました。15日は終戦の合図を旧久留米城で聞き、午後に水天宮の真木さんとお会いして資料館を見学。そして翌日に出雲入りした訳です。この行程もハードでした(汗)

 まず快速で小倉まで行きます。小倉からは寝台特急「富士」で岡山へ。この列車でないと接続に間が空いてしまうからです。いまならネットカフェでしょうが、このころはそこまで地方に普及していませんでした。

 岡山からはこの日のみ運行された「ムーンライト八重垣」に乗車。4輌編成の客車でディーゼル機関車が牽引していました。走る路線は電化されているのに不思議でしたが、まぁ、そこまで鉄道マニアではありませんので乗車して指定の席へ行きます。席の埋まり具合は30%というところでしょうか?あまりにも運行本数が少ないために乗れなかった方が多かったのでしょう。ともかく古い客車で着席したらリクライニングが古いもので、寝ようとすると動くたびにリクライニングが戻ってしまい、その度にギィギィいうのです。これはたまらないと、隣の車輌に移り、コチラはリクライニングがちゃんとしてたのでこちらで車中泊となりました。

9:30ころ、小畑さんと待ち合わせるためにJR木次線の木次駅に降りました。乗換えに1時間かかり、のんびりした旅でした。疲労はとにかくピークです。

 ここで小畑さんにお会いし、さっそく多久和のご自宅へ。ご自宅でまずは村会長同席のもと来意の本旨を告げ、そこから家の向かいにある墓所へ参りました。元にあった場所から現在の場所へ移されたそうで、墓石も新しいものが多かったように記憶しています。

 で、亀太郎の件は小畑家にいたという伝承は確かにありました。ただ、なんで霊鷲院に行ったのかまでは不明なのです。

 そして驚いたのはこの小畑家の近くに聳え立つカラマツの木でした。年輪を考えても140年はありそうでした。ちなみにこの場所には絶対に自生しない木なのです。つまり函館から持ち帰った以外にここに生えることはない訳です。

 最初も申しましたが、明治38年に没した小畑亀蔵が観光で北海道へ、それも森の霊鷲院へ行くというのも不思議な感じがします。もしかしたら亀蔵は本当は亀太郎が郷里に凱旋後、行方不明になった後、箱館戦争で戦死したことにしたのかもしれません。箱館戦争に関して戦死者はけっこう詳細に解る筈なのですが、この亀太郎のみ追善供養でしか記録がないからです。そう考えるとのちに日野の佐藤家に訪れたことと合致します。もしかすると亀太郎は最終的に森で亡くなった可能性もあるのではないでしょうか?そのために亀蔵が追善供養を行ったのかもしれません。

 どちらにしても小畑亀蔵が森町に行く動機がまったくありませんので多分に亀太郎の関係だということだけはわかります。

 ちなみに亀太郎が箱館で降伏して新政府より許され日野に来た事実も確認できています。佐藤家にはそれを証明する赦免状の写しが存在していました。

 そう考えると、亀太郎は5月に箱館で降伏し、弘前で謹慎を受けるも兵卒という立場から6月に赦免され、翌月に佐藤家を訪問し、箱館のことを伝え、横浜まで井上松五郎に送られて横浜へ出ています。その後、船路だったのか、あるいは陸路だったのかは解りませんが、郷里の多久和へ帰り、そして再度北海道に渡ったものと思われます。年子とすると年長として安政元年生まれなので16歳。青雲の志を持っていたとしても不思議ではありません。

 またこのカラマツは亀蔵が箱館へ渡る前のものと推測できるので、そうなるとカラマツの種子を持ってきたのは亀太郎しかいないという訳です。

 そう、前回紹介された「悪いことをした」というのは箱館戦争のことであり、けっして犯罪者という訳ではなかったのです。

 この一件で詫和では小畑家を見る感覚が変わりました。犯罪者の家ではなく、結果として賊軍に従軍した兵士のいた家だったからです。歴史のいたづらが小畑家を犯罪者の家と誤らせたのです。

 こうして面白い結果に終わり、その後は小畑さんのご好意でソロバンが廃れたあと、温泉ランドで持ち直した亀嵩を案内していただき、長生きする水も飲み、ちょうどこの年に「砂の器」を放映していた関係で温泉ランドにあった「砂の器コーナー」も見学いたしました。

 で、夕方に出雲市駅まで送迎していただき小畑さんと別れ、ネットカフェで時間を潰した後、行きに乗ってきた「ムーンライト八重垣」に乗車して帰路の旅に出ました。

 同年10月、三刀屋町はこの月を持って平成の大合併により雲南市となりました。最後の9月号に私が寄稿することになり、この亀太郎の話が掲載されました。この出来事は7年経った今でも忘れられない出来事です。
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砂の器記念碑の前に座る小畑定義さん

 先日「砂の器」が放送されて、思い出したことがあります。2004年に行った「亀太郎探し」です。

 ことの発端は同年4月、日野市の記者会見で「市村鉄之助は亀太郎の誤りだった」というところから始まります。鉄之助ではない亀太郎とは誰か?日野市ではバトルが展開されました。

 そのころ私は大垣市のタウン誌「西美濃わが街」の執筆で市村兄弟を手がけた関係で、その日野市の関係者と懇意の間柄にありました。なのでこの亀太郎調査に着手した訳です。

 そこに当時の三十一人会会長の林榮太郎氏より武内収太編「箱館戦争」のコピーをいただきました。そこには「霊鷲院過去帖記事摘要」に

出雲国飯石郡宅安村農 畑中亀蔵
二男 亀太郎

とあったのです。箱館戦争に従軍したうち、新選組に参加した兵卒で亀太郎は1名しかおらず、必ずしもこの亀太郎ではないとは思いましたが手懸りがない。この過去帖については後書きなので、あとで亀蔵がこの霊鷲院に事後供養していることになります。その理由もわからない。

 この亀太郎に興味が沸いて7月、いま考えれば本当に興味本位で出雲空港に行き、当時この地域を管轄する法務局で閲覧作業を行いました。

 なお、この住所について、実はすぐに浮かんだのは「砂の器」でした。

「カメダ」→「亀嵩」なら「宅安(たくあん)」→「多久和(たくわ)」ではないかと。

 そして解ったのはこの地名の記載方法は明治22年の市町村合併以前ということでした(のちに相続したのが明治14年なのでそれ以降ということが判明する)。

 法務局で粘ること5時間。5000番台までの土地台帳を閲覧し、多久和地域のみ閲覧いたしました。

 すると「亀蔵」の名前を有するのは1軒のみ。それが小畑亀蔵でした。

 残念ながらこの時点でもう15:00を過ぎていましたのでこれ以上の調査は出来ず、急いで空港へ。そのまま東京へ帰り、その日は仕事をこなして朝帰りでした。

 だけどこの日はめちゃくちゃ暑かった。買ったチェリーコークは不味く、ペプシのキューカンバーの方がマシと、そんな思い出が今も残っています。

 それでも土地台帳の公図の取得は大きかったといえます。こればかりは定点がわからないから直接取得しなければならなかったのです。おかげで管轄する三刀屋町(当時、現在は雲南市)へのアプローチができるようになったのです。

 こうして後日、三刀屋町へ連絡いたしました。すると村会長を経由して回答を得ることが出来たのです。それは、

昔悪いことをした家がある

、ソコではないかと…。

 悪いこととはなんだろう?しかし亀太郎の伝承があるという。そこで8月に三刀屋行きを決行することにいたしました。

(つづく)
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14日
7:00、空腹で起床。食事。でも調子悪し。就寝。

16:30、あるご子孫より連絡を受ける。昭和3年廃棄はおかしいので策を練る。

17:00、起床(汗)また昼夜逆転してしまいました。

18:00、食事。牛肉が不味い!というより、最近牛肉メインで食事していなかったからでしょう。濃い味が全体的にダメなようです。

19:30、コピー等があり外出。運良く営業時間外でも空いていたのでラッキー!

21:00、帰宅。諸事あり。しかし元気なし。仕方ないのでTV鑑賞。録画しておいた「ロケみつ」鑑賞。最初に見た際、昨年春、鳥取に行った際、ニアミスでこの撮影があった由。それから見てます。ようやく4月になってリアル放送になりました(それまでは半年遅れ)。

 こうして横臥しながら夜を迎えます。

15日
 なかなか眠れず。

4:00ころ就寝。

7:00、起床。食事。カレーでしたが少々辛口。美味しいけれど少しムセる。

9:00、手紙を一通。昨日の荒川区の態度の対応を腐心し、一応二段構えの方式を取ることにする。まずは東京法務局(本局)へ問い合わせ対応を確認。次の手も準備を行う。正直ここまでやろうと思えるのは昭和3年除籍の廃棄だからです。つまり、81年を経過した年が2009年ということになり、翌年施行された法務省民一第1080号に違反するからです。極論で言えば、2010年に施行されたとしても、昨年のうちからこの法案が提出されている訳です。各役所には150年に延長の可能性を示唆しているので2009年に廃棄することは問題なのです。それにすでにコンピューター化されていると考えられるので、電磁記録の場合はすでに100年廃棄と決められておりましたので電磁媒体はなければならないのです。こうしたことも、昨年の「行方不明の高齢者問題」に連鎖する訳です。

 この問題は徹底的にやります。


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