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無題
siki 麻倉様へ
お忙しい中、お調べ頂きましてありがとうございます。
いや、マジで。時間がある時で結構ですよ!
一応、他の写真とかも調べてみたのですが、
写真のブレがあって、ちゃんと読めない部分も
あるのですが…志賀重軄というのは明治以降の名前で
幕末の頃は志賀熊太(『熊』という部分が曖昧で、照とも
見える。下が四つ点なのは確認できます)という
名前だったようです。岡崎藩出身者だからといって
都合よく遊撃隊のメンバーだったら苦労しませんよね。
ま、遊撃隊とかと関係があったら面白いのにね~という
程度だったんで。
彰義隊関係…とても期待して待っています。(他力本願!)
式より
返事遅くなりました
管理人 式さま、
東奔西走しているせいか、コメントが遅くなり申し訳ありません。
岡山方面ですと、主に備中松山、および松江藩の制圧が中心だったような記憶がありますね。
それと、お尋ねの件、調べましたが、残念ながらわかりませんでした。
一応、慶応三年ころに作られた「遊撃隊人名録」には志賀姓は存在しませんでした。
ただ、遊撃隊のなかには、廿騎町屋敷の家主、大河内兵三郎の息子、金之助が入っていることは確認できます。
ただ、陸軍奉行並組に志賀三八郎という人物がいたり、微禄の家臣に志賀姓は多いようです。
お尋ねの彰義隊関連ですと、脱走兵が上総で蜂起した小編が掲載される予定です。著者は山形紘氏です。
ご苦労さまです。
siki 麻倉さま
式です。連休中も各地を調査して歩いているとは
凄いですね。式は横須賀へお出かけした以外は
自宅にずっと篭って写真と書庫の整理を
していました。
麻倉さんの指摘どおり新政府側の史料はあまり
重要視されていないようで、未発掘の史料が
多々あると聞き及んでいます。
例えば備前藩で発足された遊奇隊。
彼らは戊辰戦役では最前線で活躍した
新政府軍の諸隊の一つだったそうです。
隊士の一人だった一家に日記が残っており、
御後裔が全三巻で活字化すべく発行予定だった
のですが、戦時中で紙の入手も侭ならず、
著者も病床にいた為に一巻のみの発行で
終わってしまい、残りの史料が不明のようです。
式は活字化された一巻のみを手に入れましたが
やはり原本が見てみたかったです。
「慶応4年特集」は楽しみです。何か彰義隊関係で
面白い史料があったら見てみたいな~と
期待しています。
…繋がりとしてはちょっと強引なのですが
もしご存知でしたら教えて欲しい事があります。
史跡巡りをしていると、気になる墓石や遺構が
あったら写真で記録しておくように努めています。
で、写真整理をしていたらその中に岡崎藩士の
志賀重軄という人物の墓碑を撮影してありました。
岡崎藩といえば遊撃隊と縁が深いです。
だから何か関係があったのかな?と調べたのですが
遊撃隊の史料・資料もない状態。しかも名前も
読めないし…有名か無名かも判らない。
何かご存知でしたら教えて下さい。
ヒマな時にでも。
式
siki 麻倉様へ
お忙しい中、お調べ頂きましてありがとうございます。
いや、マジで。時間がある時で結構ですよ!
一応、他の写真とかも調べてみたのですが、
写真のブレがあって、ちゃんと読めない部分も
あるのですが…志賀重軄というのは明治以降の名前で
幕末の頃は志賀熊太(『熊』という部分が曖昧で、照とも
見える。下が四つ点なのは確認できます)という
名前だったようです。岡崎藩出身者だからといって
都合よく遊撃隊のメンバーだったら苦労しませんよね。
ま、遊撃隊とかと関係があったら面白いのにね~という
程度だったんで。
彰義隊関係…とても期待して待っています。(他力本願!)
式より
返事遅くなりました
管理人 式さま、
東奔西走しているせいか、コメントが遅くなり申し訳ありません。
岡山方面ですと、主に備中松山、および松江藩の制圧が中心だったような記憶がありますね。
それと、お尋ねの件、調べましたが、残念ながらわかりませんでした。
一応、慶応三年ころに作られた「遊撃隊人名録」には志賀姓は存在しませんでした。
ただ、遊撃隊のなかには、廿騎町屋敷の家主、大河内兵三郎の息子、金之助が入っていることは確認できます。
ただ、陸軍奉行並組に志賀三八郎という人物がいたり、微禄の家臣に志賀姓は多いようです。
お尋ねの彰義隊関連ですと、脱走兵が上総で蜂起した小編が掲載される予定です。著者は山形紘氏です。
ご苦労さまです。
siki 麻倉さま
式です。連休中も各地を調査して歩いているとは
凄いですね。式は横須賀へお出かけした以外は
自宅にずっと篭って写真と書庫の整理を
していました。
麻倉さんの指摘どおり新政府側の史料はあまり
重要視されていないようで、未発掘の史料が
多々あると聞き及んでいます。
例えば備前藩で発足された遊奇隊。
彼らは戊辰戦役では最前線で活躍した
新政府軍の諸隊の一つだったそうです。
隊士の一人だった一家に日記が残っており、
御後裔が全三巻で活字化すべく発行予定だった
のですが、戦時中で紙の入手も侭ならず、
著者も病床にいた為に一巻のみの発行で
終わってしまい、残りの史料が不明のようです。
式は活字化された一巻のみを手に入れましたが
やはり原本が見てみたかったです。
「慶応4年特集」は楽しみです。何か彰義隊関係で
面白い史料があったら見てみたいな~と
期待しています。
…繋がりとしてはちょっと強引なのですが
もしご存知でしたら教えて欲しい事があります。
史跡巡りをしていると、気になる墓石や遺構が
あったら写真で記録しておくように努めています。
で、写真整理をしていたらその中に岡崎藩士の
志賀重軄という人物の墓碑を撮影してありました。
岡崎藩といえば遊撃隊と縁が深いです。
だから何か関係があったのかな?と調べたのですが
遊撃隊の史料・資料もない状態。しかも名前も
読めないし…有名か無名かも判らない。
何かご存知でしたら教えて下さい。
ヒマな時にでも。
式
今週は連休があるので、いくつかやれることができて、本当に嬉しい限りです。
本当は最初、京都に行く計画を建てていたのですが、直前になって、16日午前中と、17日夕方に予定が入ってしまい、今回は断念。親しくさせていただいている京都新選組同好会のパレードは一度拝見してみたいと思っておりましたが、来年に順延することとなりました。
それで午前中の用事を済ませると、ついTVを見たのが運のツキ、この前見損ないました「戦国自衛隊」がやってることで、ついつい観てしまいました。観ている作業の合間に官軍の公式記録である「山道軍記」の活字化作業を行いました。
どうも新選組や旧幕府軍ばかりが特化されていて、官軍の記録が重要視されていないような気もしたので、おかげでイメージがどんどん膨らんでまいりました。
記録というのは一方ばかりを見ていると、傍観がいつのまにか主観に変わり、その人の思い入れまでもが真実と思えてきます。しかし、歴史の事実を傍観者の立場で書くにはどうしても、官軍の記録と対峙させなければ本当の事実はみえないかと思います。
特に新選組研究について、研究家と称した各作家が「思い入れ」で書いていることが多いので、いったん活字化したものでも、信用せず、原本で当たっております。そのおかげで面白い出来事もちらほらと発見できることがあります。
その後、前、後編があまりにも長いのと、「山道軍記」の活字化が終了したのを受けて、小島資料館に出かけました。私の近所から電車は「乗り換えなし」というのが助かります。
16:15ころ、到着しましたが、訪問者は1名。このあたりにブームの終焉がうかがえます。その後、1名が入れ替わりのように入って閉館ですが、その間、今年刊行予定の「幕末史研究」についてお互い意見を交換いたしました。どうやら今回は「慶応4年特集」となりそうです。
特に清水隆さんや、新しく寄稿してくださった方等、ボリュームはかなりあり、新選組研究者、およびマニアには期待のものと思えます。
そして、19:00、地元の駅に着いて、ひさびさにクッパがいただきたかったので、牛角ダイニング(ひとりでも入れる牛角というようなところ)で食事をして、帰宅。そのまま寝てしまいました。
そして今日は官軍記の活字化作業を行いました。これが苦戦しています。
みなさまが目にしている「官軍記」なるものは、実は「揖斐川町史史料編」に活字化されたものだということはご存知でしょうか。
最近では「続新選組史料集」と「新撰組五兵衛新田始末」にその掲載を見つけることができます。
これらのうち、「五兵衛~」は4月1日の分については下記①から引用されています。4月2日以降は、「活字化版」(続~は活字化版のみ)です。
実は官軍記はいくつものパターンで構成されており、
1、原本(3冊構成~市田靖氏蔵)
2、写本(活字化のもと~市田靖氏蔵)
3、活字化版(揖斐川町史史料編)
とがあります。
1はリアルタイムといえる内容で、その状況には信憑性が高い。またこの原本が改写された際、本来の意味と違った内容となった部分もあり、非常に重要です。
2は大正期以降、改写されたもので、楷書化したものです。ただし全部の改写はされず、途中で終っております。なお、活字化版にされなかった記述もあり、これもまた貴重な内容です。
3は改写版をまた読みやすくするために、一部修正が施されています。しかし、一部の記述では、意味が変わってしまったものもあり、単なる参考文献とすれば、問題はありませんが、引用には危険をともないます。
一応、わかりやすい参考例として、1箇所に傍線を入れてみました。現在、もし手元にお持ちの官軍記活字化版があれば確認していただければと思います。
これは祖式金八郎と書いてあります。1,2ともに祖式金八郎となっております。
しかし、3では祖弐釜八郎とされ、"ママ"と注釈が付いています。
2の単なるインクミスが訳し間違えられ、「金」が「釜」になった訳です。
基本的に思うのですが、「五兵衛~」は特に注釈がなく、不親切に思えるようですが、逆に読者に勘違いさせないという効果があります。逆に「続~」では注釈が入ることによって、とんでもないことが書かれることになります。「五兵衛~」の作家さまには「官軍記」の原本写真は見せたことはありますが、「続~」はありません。原本の確認を取った形跡が窺えないのでかなり危険だということになるでしょう。
以前、ほかのブログにも書きましたが、こういう危険な史料集?が出回ると、史実が変わる可能性がありますのでどうか御気をつけください。
と、いうことで、けっこう史料編が進んでまいりました。
これからもなんとか頑張りたいとおもいます。
よろしければクリックご御力お願いします
本当は最初、京都に行く計画を建てていたのですが、直前になって、16日午前中と、17日夕方に予定が入ってしまい、今回は断念。親しくさせていただいている京都新選組同好会のパレードは一度拝見してみたいと思っておりましたが、来年に順延することとなりました。
それで午前中の用事を済ませると、ついTVを見たのが運のツキ、この前見損ないました「戦国自衛隊」がやってることで、ついつい観てしまいました。観ている作業の合間に官軍の公式記録である「山道軍記」の活字化作業を行いました。
どうも新選組や旧幕府軍ばかりが特化されていて、官軍の記録が重要視されていないような気もしたので、おかげでイメージがどんどん膨らんでまいりました。
記録というのは一方ばかりを見ていると、傍観がいつのまにか主観に変わり、その人の思い入れまでもが真実と思えてきます。しかし、歴史の事実を傍観者の立場で書くにはどうしても、官軍の記録と対峙させなければ本当の事実はみえないかと思います。
特に新選組研究について、研究家と称した各作家が「思い入れ」で書いていることが多いので、いったん活字化したものでも、信用せず、原本で当たっております。そのおかげで面白い出来事もちらほらと発見できることがあります。
その後、前、後編があまりにも長いのと、「山道軍記」の活字化が終了したのを受けて、小島資料館に出かけました。私の近所から電車は「乗り換えなし」というのが助かります。
16:15ころ、到着しましたが、訪問者は1名。このあたりにブームの終焉がうかがえます。その後、1名が入れ替わりのように入って閉館ですが、その間、今年刊行予定の「幕末史研究」についてお互い意見を交換いたしました。どうやら今回は「慶応4年特集」となりそうです。
特に清水隆さんや、新しく寄稿してくださった方等、ボリュームはかなりあり、新選組研究者、およびマニアには期待のものと思えます。
そして、19:00、地元の駅に着いて、ひさびさにクッパがいただきたかったので、牛角ダイニング(ひとりでも入れる牛角というようなところ)で食事をして、帰宅。そのまま寝てしまいました。
そして今日は官軍記の活字化作業を行いました。これが苦戦しています。
みなさまが目にしている「官軍記」なるものは、実は「揖斐川町史史料編」に活字化されたものだということはご存知でしょうか。
最近では「続新選組史料集」と「新撰組五兵衛新田始末」にその掲載を見つけることができます。
これらのうち、「五兵衛~」は4月1日の分については下記①から引用されています。4月2日以降は、「活字化版」(続~は活字化版のみ)です。
実は官軍記はいくつものパターンで構成されており、
1、原本(3冊構成~市田靖氏蔵)
2、写本(活字化のもと~市田靖氏蔵)
3、活字化版(揖斐川町史史料編)
とがあります。
1はリアルタイムといえる内容で、その状況には信憑性が高い。またこの原本が改写された際、本来の意味と違った内容となった部分もあり、非常に重要です。
2は大正期以降、改写されたもので、楷書化したものです。ただし全部の改写はされず、途中で終っております。なお、活字化版にされなかった記述もあり、これもまた貴重な内容です。
3は改写版をまた読みやすくするために、一部修正が施されています。しかし、一部の記述では、意味が変わってしまったものもあり、単なる参考文献とすれば、問題はありませんが、引用には危険をともないます。
一応、わかりやすい参考例として、1箇所に傍線を入れてみました。現在、もし手元にお持ちの官軍記活字化版があれば確認していただければと思います。
これは祖式金八郎と書いてあります。1,2ともに祖式金八郎となっております。
しかし、3では祖弐釜八郎とされ、"ママ"と注釈が付いています。
2の単なるインクミスが訳し間違えられ、「金」が「釜」になった訳です。
基本的に思うのですが、「五兵衛~」は特に注釈がなく、不親切に思えるようですが、逆に読者に勘違いさせないという効果があります。逆に「続~」では注釈が入ることによって、とんでもないことが書かれることになります。「五兵衛~」の作家さまには「官軍記」の原本写真は見せたことはありますが、「続~」はありません。原本の確認を取った形跡が窺えないのでかなり危険だということになるでしょう。
以前、ほかのブログにも書きましたが、こういう危険な史料集?が出回ると、史実が変わる可能性がありますのでどうか御気をつけください。
と、いうことで、けっこう史料編が進んでまいりました。
これからもなんとか頑張りたいとおもいます。
よろしければクリックご御力お願いします
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無題
siki 麻倉様へ
お忙しい中、お調べ頂きましてありがとうございます。
いや、マジで。時間がある時で結構ですよ!
一応、他の写真とかも調べてみたのですが、
写真のブレがあって、ちゃんと読めない部分も
あるのですが…志賀重軄というのは明治以降の名前で
幕末の頃は志賀熊太(『熊』という部分が曖昧で、照とも
見える。下が四つ点なのは確認できます)という
名前だったようです。岡崎藩出身者だからといって
都合よく遊撃隊のメンバーだったら苦労しませんよね。
ま、遊撃隊とかと関係があったら面白いのにね~という
程度だったんで。
彰義隊関係…とても期待して待っています。(他力本願!)
式より
返事遅くなりました
管理人 式さま、
東奔西走しているせいか、コメントが遅くなり申し訳ありません。
岡山方面ですと、主に備中松山、および松江藩の制圧が中心だったような記憶がありますね。
それと、お尋ねの件、調べましたが、残念ながらわかりませんでした。
一応、慶応三年ころに作られた「遊撃隊人名録」には志賀姓は存在しませんでした。
ただ、遊撃隊のなかには、廿騎町屋敷の家主、大河内兵三郎の息子、金之助が入っていることは確認できます。
ただ、陸軍奉行並組に志賀三八郎という人物がいたり、微禄の家臣に志賀姓は多いようです。
お尋ねの彰義隊関連ですと、脱走兵が上総で蜂起した小編が掲載される予定です。著者は山形紘氏です。
ご苦労さまです。
siki 麻倉さま
式です。連休中も各地を調査して歩いているとは
凄いですね。式は横須賀へお出かけした以外は
自宅にずっと篭って写真と書庫の整理を
していました。
麻倉さんの指摘どおり新政府側の史料はあまり
重要視されていないようで、未発掘の史料が
多々あると聞き及んでいます。
例えば備前藩で発足された遊奇隊。
彼らは戊辰戦役では最前線で活躍した
新政府軍の諸隊の一つだったそうです。
隊士の一人だった一家に日記が残っており、
御後裔が全三巻で活字化すべく発行予定だった
のですが、戦時中で紙の入手も侭ならず、
著者も病床にいた為に一巻のみの発行で
終わってしまい、残りの史料が不明のようです。
式は活字化された一巻のみを手に入れましたが
やはり原本が見てみたかったです。
「慶応4年特集」は楽しみです。何か彰義隊関係で
面白い史料があったら見てみたいな~と
期待しています。
…繋がりとしてはちょっと強引なのですが
もしご存知でしたら教えて欲しい事があります。
史跡巡りをしていると、気になる墓石や遺構が
あったら写真で記録しておくように努めています。
で、写真整理をしていたらその中に岡崎藩士の
志賀重軄という人物の墓碑を撮影してありました。
岡崎藩といえば遊撃隊と縁が深いです。
だから何か関係があったのかな?と調べたのですが
遊撃隊の史料・資料もない状態。しかも名前も
読めないし…有名か無名かも判らない。
何かご存知でしたら教えて下さい。
ヒマな時にでも。
式
siki 麻倉様へ
お忙しい中、お調べ頂きましてありがとうございます。
いや、マジで。時間がある時で結構ですよ!
一応、他の写真とかも調べてみたのですが、
写真のブレがあって、ちゃんと読めない部分も
あるのですが…志賀重軄というのは明治以降の名前で
幕末の頃は志賀熊太(『熊』という部分が曖昧で、照とも
見える。下が四つ点なのは確認できます)という
名前だったようです。岡崎藩出身者だからといって
都合よく遊撃隊のメンバーだったら苦労しませんよね。
ま、遊撃隊とかと関係があったら面白いのにね~という
程度だったんで。
彰義隊関係…とても期待して待っています。(他力本願!)
式より
返事遅くなりました
管理人 式さま、
東奔西走しているせいか、コメントが遅くなり申し訳ありません。
岡山方面ですと、主に備中松山、および松江藩の制圧が中心だったような記憶がありますね。
それと、お尋ねの件、調べましたが、残念ながらわかりませんでした。
一応、慶応三年ころに作られた「遊撃隊人名録」には志賀姓は存在しませんでした。
ただ、遊撃隊のなかには、廿騎町屋敷の家主、大河内兵三郎の息子、金之助が入っていることは確認できます。
ただ、陸軍奉行並組に志賀三八郎という人物がいたり、微禄の家臣に志賀姓は多いようです。
お尋ねの彰義隊関連ですと、脱走兵が上総で蜂起した小編が掲載される予定です。著者は山形紘氏です。
ご苦労さまです。
siki 麻倉さま
式です。連休中も各地を調査して歩いているとは
凄いですね。式は横須賀へお出かけした以外は
自宅にずっと篭って写真と書庫の整理を
していました。
麻倉さんの指摘どおり新政府側の史料はあまり
重要視されていないようで、未発掘の史料が
多々あると聞き及んでいます。
例えば備前藩で発足された遊奇隊。
彼らは戊辰戦役では最前線で活躍した
新政府軍の諸隊の一つだったそうです。
隊士の一人だった一家に日記が残っており、
御後裔が全三巻で活字化すべく発行予定だった
のですが、戦時中で紙の入手も侭ならず、
著者も病床にいた為に一巻のみの発行で
終わってしまい、残りの史料が不明のようです。
式は活字化された一巻のみを手に入れましたが
やはり原本が見てみたかったです。
「慶応4年特集」は楽しみです。何か彰義隊関係で
面白い史料があったら見てみたいな~と
期待しています。
…繋がりとしてはちょっと強引なのですが
もしご存知でしたら教えて欲しい事があります。
史跡巡りをしていると、気になる墓石や遺構が
あったら写真で記録しておくように努めています。
で、写真整理をしていたらその中に岡崎藩士の
志賀重軄という人物の墓碑を撮影してありました。
岡崎藩といえば遊撃隊と縁が深いです。
だから何か関係があったのかな?と調べたのですが
遊撃隊の史料・資料もない状態。しかも名前も
読めないし…有名か無名かも判らない。
何かご存知でしたら教えて下さい。
ヒマな時にでも。
式
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麻倉様へ
お忙しい中、お調べ頂きましてありがとうございます。
いや、マジで。時間がある時で結構ですよ!
一応、他の写真とかも調べてみたのですが、
写真のブレがあって、ちゃんと読めない部分も
あるのですが…志賀重軄というのは明治以降の名前で
幕末の頃は志賀熊太(『熊』という部分が曖昧で、照とも
見える。下が四つ点なのは確認できます)という
名前だったようです。岡崎藩出身者だからといって
都合よく遊撃隊のメンバーだったら苦労しませんよね。
ま、遊撃隊とかと関係があったら面白いのにね~という
程度だったんで。
彰義隊関係…とても期待して待っています。(他力本願!)
式より
お忙しい中、お調べ頂きましてありがとうございます。
いや、マジで。時間がある時で結構ですよ!
一応、他の写真とかも調べてみたのですが、
写真のブレがあって、ちゃんと読めない部分も
あるのですが…志賀重軄というのは明治以降の名前で
幕末の頃は志賀熊太(『熊』という部分が曖昧で、照とも
見える。下が四つ点なのは確認できます)という
名前だったようです。岡崎藩出身者だからといって
都合よく遊撃隊のメンバーだったら苦労しませんよね。
ま、遊撃隊とかと関係があったら面白いのにね~という
程度だったんで。
彰義隊関係…とても期待して待っています。(他力本願!)
式より
式さま、
東奔西走しているせいか、コメントが遅くなり申し訳ありません。
岡山方面ですと、主に備中松山、および松江藩の制圧が中心だったような記憶がありますね。
それと、お尋ねの件、調べましたが、残念ながらわかりませんでした。
一応、慶応三年ころに作られた「遊撃隊人名録」には志賀姓は存在しませんでした。
ただ、遊撃隊のなかには、廿騎町屋敷の家主、大河内兵三郎の息子、金之助が入っていることは確認できます。
ただ、陸軍奉行並組に志賀三八郎という人物がいたり、微禄の家臣に志賀姓は多いようです。
お尋ねの彰義隊関連ですと、脱走兵が上総で蜂起した小編が掲載される予定です。著者は山形紘氏です。
東奔西走しているせいか、コメントが遅くなり申し訳ありません。
岡山方面ですと、主に備中松山、および松江藩の制圧が中心だったような記憶がありますね。
それと、お尋ねの件、調べましたが、残念ながらわかりませんでした。
一応、慶応三年ころに作られた「遊撃隊人名録」には志賀姓は存在しませんでした。
ただ、遊撃隊のなかには、廿騎町屋敷の家主、大河内兵三郎の息子、金之助が入っていることは確認できます。
ただ、陸軍奉行並組に志賀三八郎という人物がいたり、微禄の家臣に志賀姓は多いようです。
お尋ねの彰義隊関連ですと、脱走兵が上総で蜂起した小編が掲載される予定です。著者は山形紘氏です。
麻倉さま
式です。連休中も各地を調査して歩いているとは
凄いですね。式は横須賀へお出かけした以外は
自宅にずっと篭って写真と書庫の整理を
していました。
麻倉さんの指摘どおり新政府側の史料はあまり
重要視されていないようで、未発掘の史料が
多々あると聞き及んでいます。
例えば備前藩で発足された遊奇隊。
彼らは戊辰戦役では最前線で活躍した
新政府軍の諸隊の一つだったそうです。
隊士の一人だった一家に日記が残っており、
御後裔が全三巻で活字化すべく発行予定だった
のですが、戦時中で紙の入手も侭ならず、
著者も病床にいた為に一巻のみの発行で
終わってしまい、残りの史料が不明のようです。
式は活字化された一巻のみを手に入れましたが
やはり原本が見てみたかったです。
「慶応4年特集」は楽しみです。何か彰義隊関係で
面白い史料があったら見てみたいな~と
期待しています。
…繋がりとしてはちょっと強引なのですが
もしご存知でしたら教えて欲しい事があります。
史跡巡りをしていると、気になる墓石や遺構が
あったら写真で記録しておくように努めています。
で、写真整理をしていたらその中に岡崎藩士の
志賀重軄という人物の墓碑を撮影してありました。
岡崎藩といえば遊撃隊と縁が深いです。
だから何か関係があったのかな?と調べたのですが
遊撃隊の史料・資料もない状態。しかも名前も
読めないし…有名か無名かも判らない。
何かご存知でしたら教えて下さい。
ヒマな時にでも。
式
式です。連休中も各地を調査して歩いているとは
凄いですね。式は横須賀へお出かけした以外は
自宅にずっと篭って写真と書庫の整理を
していました。
麻倉さんの指摘どおり新政府側の史料はあまり
重要視されていないようで、未発掘の史料が
多々あると聞き及んでいます。
例えば備前藩で発足された遊奇隊。
彼らは戊辰戦役では最前線で活躍した
新政府軍の諸隊の一つだったそうです。
隊士の一人だった一家に日記が残っており、
御後裔が全三巻で活字化すべく発行予定だった
のですが、戦時中で紙の入手も侭ならず、
著者も病床にいた為に一巻のみの発行で
終わってしまい、残りの史料が不明のようです。
式は活字化された一巻のみを手に入れましたが
やはり原本が見てみたかったです。
「慶応4年特集」は楽しみです。何か彰義隊関係で
面白い史料があったら見てみたいな~と
期待しています。
…繋がりとしてはちょっと強引なのですが
もしご存知でしたら教えて欲しい事があります。
史跡巡りをしていると、気になる墓石や遺構が
あったら写真で記録しておくように努めています。
で、写真整理をしていたらその中に岡崎藩士の
志賀重軄という人物の墓碑を撮影してありました。
岡崎藩といえば遊撃隊と縁が深いです。
だから何か関係があったのかな?と調べたのですが
遊撃隊の史料・資料もない状態。しかも名前も
読めないし…有名か無名かも判らない。
何かご存知でしたら教えて下さい。
ヒマな時にでも。
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