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「慶応四年新撰組近藤勇始末」、「慶応四年新撰組隊士伝」著者、あさくらゆうが書いているブログです。 *なお、画像の無断使用、本来の意図と関係ない部分をツギハギして論争に使用することを固くお断り申し上げます。
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光明院にある鴻池支配人、増村家墓所
 過去、拙ブログでもココココでも紹介しております流山永岡家の遺物が出たというニュースがありました。

近藤勇本陣の“物証”発見 「秋元」祠から木箱、お札 流山
祠の前で新選組ゆかりの木箱とお札を持つ秋元浩司さん=流山市流山

 新選組局長の近藤勇が最後の陣を敷いた本陣の場所を特定する木箱やお札が流山市流山の祠(ほこら)から見つかった。これまでにも同所は歴史資料などで本陣跡と記されていたが、今回“物証”が発見されたことで史実を裏付けた。

 近藤勇の本陣位置は1920(大正9)年刊の「流山町誌」や幕末の流山の様子を記した「恩田家文書」などの記述を根拠に当時の酒問屋、永岡三郎兵衛方とされている。この永岡方の場所は現在の酒類問屋「秋元」(同市流山2丁目)の敷地だと推察されていたが今回、同敷地の祠から「永岡三郎兵衛」の文字が書かれた木箱やお札が見つかったことで、永岡方の地であったことが立証された。

 木箱とお札に書かれていた年号「元治二年」(1865)は近藤勇が陣を敷いたわずか3年前。この点からもここが本陣位置であった有力な証拠となった。
千葉日報 2012年4月4日

コチラでして、ひとつは棟札らしきもの。ひとつの箱は詳細不明です。ただ花押があるのは面白いと思います。

 元治二年というと、ちょうど長州征伐に入る年で、永岡三郎兵衛が幕府に献金した功労によって一代限り苗字御免が許された年です。これと少し関係するかもしれません。

 どちらにしても、秋元分家の土地が江戸末期、鴻池のあった場所のひとつに違いないことは間違いありません。土地建物の謄本から類推しても、あそこを含めて2ケ所、鴻池があった場所が確認できます。

 近藤勇改め大久保大和守が流山に到着したのは4月2日で、桑名藩用達だった鴻池儀兵衛こと永岡儀兵衛の酒製造元である流山永岡三郎兵衛宅を拠点としたのが同日とされています。このとき隊士が200名を超えておりましたので、地元の支配人、由太郎の菩提寺、光明院ほかに分宿しています。

 しかし、翌日には近隣にあった田中藩陣屋より春日部を通行中の東山道軍斥候隊に注進があり、有馬藤太、上田楠次ら100名が流山に転進し、大久保軍を包囲します。

 おそらく大久保軍は人間は到着しても、荷駄は松戸関所あたりに滞留していたと思われるため、戦闘できる状態になく、投降いたしました。

 この鴻池こと、永岡三郎兵衛方にいたのは実に1泊2日でしたが(隊士は2泊3日)、大久保隊自体が急遽来訪した形となったため、流山村民は大騒動だったようです。

 余談ですが、大久保隊来訪は序章のようなもので、その後、旧幕府軍が何度も流山村に来訪し、桑名藩に至っては軍資金を受け取ったりしています。

 結論から言うと、鴻池で製造される酒の仕込みが失敗したために、志摩屋へ譲渡し、中村権次郎に転売され、この父が当時流山村長だったため、同所に村役場が設置され、大正9年に別の場所に移転後、現在の秋元分家が取得したという構図となります。

 なお、鴻池儀兵衛のことは拙著「慶応四年新撰組近藤勇始末」に掲載しています。

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