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「慶応四年新撰組近藤勇始末」、「慶応四年新撰組隊士伝」著者、あさくらゆうが書いているブログです。 *なお、画像の無断使用、本来の意図と関係ない部分をツギハギして論争に使用することを固くお断り申し上げます。
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28日
13:00、起床。熱。風邪の症状。調子悪し。

15:00、ネットでようやく日本経済新聞が記事をUPしていただきました。

 それと、あとで共同通信に聞いたところ、山形新聞は記事の趣旨を修正し、内藤新一郎主体の記事にして、私の名前を削ったとの由。まぁ、中身が大事なので小事は構いません。福島県は福島民友、福島民報ともに掲載されたとの由。

 この文書は上杉孝久文書にある「米沢戊辰実記」23巻のうち、「会津部」と呼ばれる2冊のうちの1冊に記述されたもので、膨大な戊辰戦史を上杉分家である米沢新田藩が編纂したものです。

 なお、8月末に米沢市立図書館が発表した「鶴城叢書」とはまったく別物です。似たような名前があるので間違いやすいですが、もとの文書群が違います。

 きっかけは9月7日に「鶴城叢書」を撮影する際、それだけではもったいないと、別途申請していたもののなかにあったもので、恥ずかしいのですが、CD-Rにデータを移すときに気付いたものです。

 20日に米沢市立図書館宛に共同通信が掲載許可を申請し、27日早朝に配信しております。なので、早いところでは27日の夕刊で掲載されています。

 面白いのは、内藤、蔵田(内藤の上司)が山本家に寄留していることで、山本家=川崎尚之助となり、もちろん川崎八重がいた家になります。内容も興味があります。

 なお、この文書を取得する場合は事前に米沢市立図書館に閲覧申請書と複写申請書を添付のうえ行えば、コピーが入手できます。米沢市立図書館は銀行振り込みが出来ますので便利です。

 なお、この後、クネクネした嫉みな方がネットで大暴れしていましたことは報告します。なお、9月30日の時点で米沢市立図書館の担当者へ連絡していなかったことも付記します。いかに信憑性のないことを流布したかがわかることでしょう。なかには「ガセ新聞」とネットに書いていますが、共同通信配信だということも知らないで書いていることが哀れとしか言いようがありません。

閑話休題。

 昨日に続いて執筆を行います。何度も何度も書いては書き直して、時間はどんどん経過して行きます。

19:30、急いで荒川区立南千住図書館へ行き、図書の貸し借り。その後、三河島駅まで行き日本経済新聞の夕刊を入手します。紙媒体にも掲載されたそうです。

20:30、帰宅。原稿の執筆の開始。

23:00、ようやく粗原稿完成!熱と戦いながらもこれから推敲に入ります。

 こうして夜は更けて参ります。
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現在は香美町にある川崎家墓所

 本日、神戸新聞の夕刊に川崎尚之助の記事が掲載されました。

2013年大河の新島八重 最初の夫は出石藩出身

 福島県を舞台とした2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」。その主人公新島八重の最初の夫、川崎尚之助に注目が集まっている。但馬の出石藩出身で、八重の兄山本覚馬らが見いだし、会津藩で教べんをとっていたとされるが、詳しいことは分かっていなかった。大河ドラマ放映決定を機に、その生涯が少しずつ明らかになってきた。(長嶺麻子)

 八重は同志社大学(京都市)の創立者新島襄の妻。会津藩の砲術師範の子として生まれた。1868(明治元)年の戊辰戦争の最中、藩士らと共に若松城に籠城し、新政府軍と戦った勇敢な女性としても知られる。尚之助は短いながらも、八重と激動の時代を共に生きた。

 1922(大正11)年発行の会津会会報(会津藩に関する記録)によると、尚之助は出石藩の医師の子との記述が残る。一方、江戸末期に記された出石藩士らの名簿「御侍帳」に川崎という姓が1人いるものの、尚之助につながる記述がないことから出石藩との関連は分かっていなかった。

 2人は1865(慶応元)年頃に結婚したが、会津での籠城戦の際に尚之助が行方不明になり、後に離婚した。八重が襄と結婚する75(明治8)年、39歳の尚之助は東京で病死。会津藩士か定かでなかったことから、これまで「籠城戦のさなかに逃亡した」と不名誉な評価もあった。

 「八重の桜」の放映決定を受け、尚之助に関心を持った歴史研究家あさくらゆうさん(43)=東京都=はその足跡をたどった。そして昨年12月、敗れた会津藩士らが移った斗南藩(現在の青森県)に関する公文書を、北海道立文書館(札幌市)で見つけた。そこには尚之助が会津藩士として仲間と行動を共にし、食糧難に窮する藩のため奔走した様子が書かれていた。

 出石藩のあった豊岡市でさらに調査すると、願成寺(同市出石町東條)にあった明治中期に記された墓石台帳に、尚之助と同じ没年月日の戒名があった。出石藩士だった川崎家の墓であり、戸籍をたどってもほかに該当者がいないことなどから、あさくらさんは「郷里を離れて死んだ尚之助を弔ったとみて、ほぼ間違いないだろう」とする。

 大河ドラマでは、八重は綾瀬はるかさんが演じ、尚之助役は一部報道で長谷川博己さんに決まったとされる。NHK広報部は「八重と尚之助の結婚もしっかりと描く。6月には正式に配役を発表できる」としている。


 今回、運良く出石関係の方々の協力と川崎家の協力のコラボにより、こうした記事が出来ました。戒名の問題等、いくつか課題はありますが、少しづつ解決できればと存じます。どのみち、通説とはかなり異なる様相が出ておりますので、こうした通説の修正が出来るようになれば、来年の大河ドラマにも反映され、川崎尚之助の顕彰に役立つかと思います。

*最近、少々疲労困憊なため、記事UPが遅れましたことをお詫び申上げます。なお、先週末の記事も明日より追々UPしたく存じます。

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謹啓、

 本日、朝刊各紙に川崎尚之助に関する記事が掲載されたことと思います。

 発見の経緯は東京都公文書館の往復文書です。川崎尚之助の死去の説明に根津親徳が呼び出されたことによります。

 この場合、往復文書ですから東京府にあるなら相手先である開拓使~現在の北海道にもあるだろうと北海道立文書館で検索しました。すると40件(私文書含む)がHITした訳です。

 その後、11月15日、実際に札幌へ文書の調査をした際、その膨大な量から全部を取得できませんでしたがある程度の取得が出来ました。

 そして帰宅してから文書を翻訳し、共同通信にその話を伝えたところ、この記事に至りました。

 今回の発表の成果として、まず川崎尚之助の消息が明治3年10月から同8年3月20日の死去までの足取りがすべて判明したことです。これにより、妻の八重との交際が東京謹慎以降、完全に途絶した状態が如実に解ることとなったのです。

 川崎は結局、取引を主導した米座省三という人物に騙されたのです。米座が借金を埋めるため、事故の起きている広東米の手形を収穫予定の大豆との先物交換取引で纏め上げ、その手形を貰えると思った川崎は予定の手形が入手出来ず、なおかつ張本人の米座は逃亡。米座の借金の返済がなければ渡さないという事態に陥ったのです。

 川崎はこの手形を取り戻すための訴訟を起こしますが、斗南藩はこの取引を川崎と柴太一郎の独断と断罪し、関与を否定しました。当然、大豆取引も成立せずに今度は逆に川崎と柴が訴えられます。

 その間、逃亡中の米座が東京で逮捕され、ようやく手形は川崎の手に入手されます。しかし古米となり、相場も下落して大損害が起きました。ここでも訴訟が起りました。

 結論として3名は今でいう詐欺罪として立件され、米座は拘禁、柴、川崎は保護観察状態に置かれます。のちに川崎が独自に行ったと供述し、今回の事件の中心人物となります。

 しかし、体調を崩した川崎は明治7年に函館へ連行される途中に重病に陥り、安静を余儀なくされます。

 その川崎が函館に行かずに東京へ戻ったのが明治8年2月5日。かなり重症の肺炎だったようで同月7日に東京医学校病院に入院します。

 そして同年3月20日、病院で川崎は死去しました。

 事件については中心人物となっていた川崎が死去したことで相手側の訴えは国に移行しましたが取りあわれずに終焉。柴は禁固百日、米座は禁固2年の判決を受けました。

 いま述べた内容は40点の文書のほか、デュース、ブラッキストン関係の公文書も併せた内容となっております。もしご覧になられるのでしたら北海道立文書館に問い合わせの上閲覧されることをお勧めします。基本的に原本ですので、コピー等は一部を除き出来ませんので、郵送等は不可能です。

 この成果の概要は新島八重を歩く(光人社)で執筆を予定しておりますので、発売予定の2012年5月までお待ちください。お待ちできないようでしたら北海道立文書館で閲覧が可能ですのでどうかご確認ください。ただし活字文書ではありませんので、その点だけはご留意いただきますよう、お願い申上げます。

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 20日、東京都日野市内で配布されました「日野ニュース」において新選組名簿発見の記事が掲載されました。もちろん発見場所が鳥取県立博物館ですので、私が提供した記事です。時期は慶応2年10~慶応3年1月の間のもので、山崎丞の日記(日野市立ふるさと博物館発行)と比較すると約30名も脱落しています。こうした意味でも貴重でしょう。機会があれば日野ニュース社へお問い合わせください。

22日
0:30起床。「千葉の名灸」の句読点付与&ブログ記事のタグ貼りを。

12:00、病院で薬をいただきます。

13:00、急激な悪寒!急遽投薬の後、ベッドへ。

15:40、根性で復活!そのまま家を出発。

16:10、東京都公文書館に到着。「千葉の名灸」の補足資料を入手します。聞くところによると、派遣が1年で切り替わったとか。いちいち教える方も大変でしょうに。

17:10、予定していたものがおおよそ入手できて辞去。

17:40、荒川区立南千住図書館へ。

18:30、帰宅。

19:30、就寝。


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5日
3:00、寝られず。仕方なく「千葉の名灸」2本翻刻。千葉さなの必殺!一本背負い炸裂(爆)

5:00、せっかくなのでコンビニまで出掛け、東京新聞を購入。21面に掲載されています。山口菊次郎に関する記事です。コメントは桂歌丸さんがしています。文中、本当に隙間のない記事に仕上がりました。あれだけ打ち合わせしましたからかなり濃いです。

6:00、ようやく睡魔が訪れたので就寝。

12:00起床。滝野川新選組まつり実行委員会より昨日、参加願いが届いておりましたが、どうも昨年、問題を起こしてサミット構成団体を除名された団体の方にも届いたとの報告が加盟団体より連絡をいただき事情確認を。主催者に問い合わせたところ、いくつかの手違いがあったようで……一応日野等と連携を確認いたしました。。

 一応、今回は滝野川に協力体制を取りたいと思っています。市谷柳町試衛館と協力し、かつ私からも少し板橋一件に関するパネル展示を行うことも考えています。

13:50、用事があって千住へ。

15:00、帰宅。少し悪寒。

16:00、少し電話。他の団体関係に連絡事項がいくつか。

19:30、少し買い物。帰りにスーパーで「古奈屋のカレーうどん」を購入。食事したら美味。この時期には良いですね。レトルトでもうどん、蕎麦だとソンナに遜色はありません。

24:30、根性で就寝。


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