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現在は香美町にある川崎家墓所
本日、神戸新聞の夕刊に川崎尚之助の記事が掲載されました。
2013年大河の新島八重 最初の夫は出石藩出身
福島県を舞台とした2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」。その主人公新島八重の最初の夫、川崎尚之助に注目が集まっている。但馬の出石藩出身で、八重の兄山本覚馬らが見いだし、会津藩で教べんをとっていたとされるが、詳しいことは分かっていなかった。大河ドラマ放映決定を機に、その生涯が少しずつ明らかになってきた。(長嶺麻子)
八重は同志社大学(京都市)の創立者新島襄の妻。会津藩の砲術師範の子として生まれた。1868(明治元)年の戊辰戦争の最中、藩士らと共に若松城に籠城し、新政府軍と戦った勇敢な女性としても知られる。尚之助は短いながらも、八重と激動の時代を共に生きた。
1922(大正11)年発行の会津会会報(会津藩に関する記録)によると、尚之助は出石藩の医師の子との記述が残る。一方、江戸末期に記された出石藩士らの名簿「御侍帳」に川崎という姓が1人いるものの、尚之助につながる記述がないことから出石藩との関連は分かっていなかった。
2人は1865(慶応元)年頃に結婚したが、会津での籠城戦の際に尚之助が行方不明になり、後に離婚した。八重が襄と結婚する75(明治8)年、39歳の尚之助は東京で病死。会津藩士か定かでなかったことから、これまで「籠城戦のさなかに逃亡した」と不名誉な評価もあった。
「八重の桜」の放映決定を受け、尚之助に関心を持った歴史研究家あさくらゆうさん(43)=東京都=はその足跡をたどった。そして昨年12月、敗れた会津藩士らが移った斗南藩(現在の青森県)に関する公文書を、北海道立文書館(札幌市)で見つけた。そこには尚之助が会津藩士として仲間と行動を共にし、食糧難に窮する藩のため奔走した様子が書かれていた。
出石藩のあった豊岡市でさらに調査すると、願成寺(同市出石町東條)にあった明治中期に記された墓石台帳に、尚之助と同じ没年月日の戒名があった。出石藩士だった川崎家の墓であり、戸籍をたどってもほかに該当者がいないことなどから、あさくらさんは「郷里を離れて死んだ尚之助を弔ったとみて、ほぼ間違いないだろう」とする。
大河ドラマでは、八重は綾瀬はるかさんが演じ、尚之助役は一部報道で長谷川博己さんに決まったとされる。NHK広報部は「八重と尚之助の結婚もしっかりと描く。6月には正式に配役を発表できる」としている。
今回、運良く出石関係の方々の協力と川崎家の協力のコラボにより、こうした記事が出来ました。戒名の問題等、いくつか課題はありますが、少しづつ解決できればと存じます。どのみち、通説とはかなり異なる様相が出ておりますので、こうした通説の修正が出来るようになれば、来年の大河ドラマにも反映され、川崎尚之助の顕彰に役立つかと思います。
*最近、少々疲労困憊なため、記事UPが遅れましたことをお詫び申上げます。なお、先週末の記事も明日より追々UPしたく存じます。
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