×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
8月12日、新選組のふるさと歴史館で、講演会が催されました。
題名は「芹澤鴨と水戸天狗党佐原騒動について」です。
ギリギリ時間がありましたので、前日に予約をし、歴史館で展示されてる史料とともに、楽しみに聴講いたしました。
時間は午後1時~2時30分だったのですが、北海道行の荷物の整理がなかなかつかず、2日間で睡眠2時間という状況が、頭の回転を鈍らせつつ、ようやく着いたのは13:45でした。
受付を済ませ、2Fの講座室に入ると館長が講座のレジメを持っておりましたので、いただこうと近寄りましたらレジメを抑えながら睨みます。
なんでだろう?と思いつつ「フン!!」というような素振りでようやくレジメをくれ、一番前の席で聴講いたしました。
講師は酒井右二氏といい、千葉県立佐原高校の教諭だそうです。聞くところによると、宮地さん関係で、佐原と天狗党について、急ピッチで調べたそうです。
今回、面白かったのは、天狗党浪士佐原騒動一件留書についてで、下村継次の暴力行為について、新出部があることでした。
万延元年(1860)秋に集まった通称玉造組(講演では天狗党と呼んでいるがこちらが正しい)は、横浜での攘夷決行を行うための資金が必要で、各地から献金を募っておりました。翌年1月にはついに代官領の佐原まで参り、1000両の献金を要請します。しかし、集まったのは半分にも満たず、その怒りが下村の鉄扇暴行へと繋がります。
いまのご時世からすれば、強盗行為ですが、当時からすれば、維新草莽期の行動となるのでしょうか?
しかし、この代官領での強奪行為が幕府を刺激し、ついには水戸藩を経由して一斉捕縛へと繋がるわけです。
講演は文書についてのことが中心で、簡潔にまとめられておりますが、もう少し水戸藩の維新の原動力となった基盤や玉造組結成にいたるまでの経緯が濃ければ嬉しかったと思います。
講演は予定より早く14:10くらいで終了し、酒井氏と少し話したあと、下の展示物を拝見し、その足で井上源三郎資料館へ訪れました。
訪れたのには理由がありました。
もしかしたらあるかと期待していた士族復帰の歎願書についてです。
館長にお話ししたところ、「ありません」とのこと。残念でした。
でも、史実を辿ると、ほんとうは井上家は明治33年に士族に編入される予定があったのですが、事情があり、不許可になってしまいました。
いずれなにかの形で発表したいとは思っておりますが、こういう事実があったことをお知らせいたしました。
この際、たまたま谷享司さまがお越しになり、3人で雑談をし、谷さまからは旅行の餞別をいただきました。ありがとうございます。
と、いうことで15:45分、日野を後にいたし、北へと向かいました。
よろしければクリックご御力お願いします
題名は「芹澤鴨と水戸天狗党佐原騒動について」です。
ギリギリ時間がありましたので、前日に予約をし、歴史館で展示されてる史料とともに、楽しみに聴講いたしました。
時間は午後1時~2時30分だったのですが、北海道行の荷物の整理がなかなかつかず、2日間で睡眠2時間という状況が、頭の回転を鈍らせつつ、ようやく着いたのは13:45でした。
受付を済ませ、2Fの講座室に入ると館長が講座のレジメを持っておりましたので、いただこうと近寄りましたらレジメを抑えながら睨みます。
なんでだろう?と思いつつ「フン!!」というような素振りでようやくレジメをくれ、一番前の席で聴講いたしました。
講師は酒井右二氏といい、千葉県立佐原高校の教諭だそうです。聞くところによると、宮地さん関係で、佐原と天狗党について、急ピッチで調べたそうです。
今回、面白かったのは、天狗党浪士佐原騒動一件留書についてで、下村継次の暴力行為について、新出部があることでした。
万延元年(1860)秋に集まった通称玉造組(講演では天狗党と呼んでいるがこちらが正しい)は、横浜での攘夷決行を行うための資金が必要で、各地から献金を募っておりました。翌年1月にはついに代官領の佐原まで参り、1000両の献金を要請します。しかし、集まったのは半分にも満たず、その怒りが下村の鉄扇暴行へと繋がります。
いまのご時世からすれば、強盗行為ですが、当時からすれば、維新草莽期の行動となるのでしょうか?
しかし、この代官領での強奪行為が幕府を刺激し、ついには水戸藩を経由して一斉捕縛へと繋がるわけです。
講演は文書についてのことが中心で、簡潔にまとめられておりますが、もう少し水戸藩の維新の原動力となった基盤や玉造組結成にいたるまでの経緯が濃ければ嬉しかったと思います。
講演は予定より早く14:10くらいで終了し、酒井氏と少し話したあと、下の展示物を拝見し、その足で井上源三郎資料館へ訪れました。
訪れたのには理由がありました。
もしかしたらあるかと期待していた士族復帰の歎願書についてです。
館長にお話ししたところ、「ありません」とのこと。残念でした。
でも、史実を辿ると、ほんとうは井上家は明治33年に士族に編入される予定があったのですが、事情があり、不許可になってしまいました。
いずれなにかの形で発表したいとは思っておりますが、こういう事実があったことをお知らせいたしました。
この際、たまたま谷享司さまがお越しになり、3人で雑談をし、谷さまからは旅行の餞別をいただきました。ありがとうございます。
と、いうことで15:45分、日野を後にいたし、北へと向かいました。
よろしければクリックご御力お願いします
PR
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック