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「慶応四年新撰組近藤勇始末」、「慶応四年新撰組隊士伝」著者、あさくらゆうが書いているブログです。 *なお、画像の無断使用、本来の意図と関係ない部分をツギハギして論争に使用することを固くお断り申し上げます。
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100919序幕式

 7月5日、旧水戸藩郷士芹澤家の当主、芹澤雄二氏(中央人物)が逝去されました。

 たぶんお会いしたのは10年前だったと思います。ネットで見つけた方々と史跡めぐりする際、無理を承知してお邪魔いたしましたのが最初です。そのときに撮った記念写真はいまも大事に保存しています。

 先生は自ら語る方ではありませんでした。しかし、問いについて応えるときの言葉はひとつひとつ沁み入るようで、いつも私は緊張の連続でした。

 あるとき、私が開放骨折した際、先生とやり取りがあったため、その旨を手紙に添えたところ、数日後、なにも言葉もなく現金書留が届きました。あのときの感謝と感動はいまも涙がこみあげてきます。

 これが原動力となり、三角巾で右腕を吊りながら、当時の旧玉造町庁舎で芹澤鴨の説明を行い、紆余曲折ありましたが、幸運にも2004年には「新選組を創った男の街」として浸透することになりました。

 こうして法眼寺には芹澤鴨・平間重助の碑も建立され、滅多にイベントには来られない先生の除幕式はいまも忘れられません。

 そして2010年、私が昨年お梅の縁者、菱屋を判明させ、お梅の顕彰を行う際、普段ものごしの静かなお声の先生が大変喜ばれたことは本当にやってよかったと、感じ入りました。

 もちろん、芹澤鴨関係だけでなく、芹澤家、そしてスポーツ振興、医学会に大きく貢献した先生の業績は計り知れないものがあり、簡単には数えきれるものではありません。ご本人はただ助力したとしか語らず、しかし、その数は多岐に上ります。茨城県立歴史館に芹澤家文書が公開されているのも先生の功績でしょう。

 今後、私に出来ることは芹澤鴨の顕彰、芹澤家の顕彰だと思います。どうか天国で見守ってください。ご冥福をお祈り申上げます。


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24日
7:00、起床。よく眠れました。

8:50、タクシ-で図書館へ。7分ほどで到着しました。

9:00、あらかじめ約束しておりました松平家文書等の閲覧を開始します。とにかく流れ作業で必要な場所を探します。探してるうちに…。

 エッ…、田中左内って田中土佐と関係ないじゃん!!とか分かったりショックと事実を受け止めたりと、閲覧作業は続きます。意外に山本家より川崎家の方が見つかりました。それと芹澤家に家伝の製法を乞うた鈴木三省なんかもいました。

 きっちり10:30に終了。丁重に御礼を述べた後、辞去。ここから徒歩3分の神明通りバス停に向かいます。ここから新潟行きのバスに乗車します。数日前のブログでも触れましたが故斎藤清氏の通夜に参列するためです。残念ながら通夜の読経には間に合いませんが、会場で手を合わせることは出来るであろうと、私に出来るせめてものことです。

10:40、雪のせいで少し遅れてバスが到着。乗り込んで新潟駅に向かいます。

 ここで奇跡が起きました。

 このバスの新潟駅到着予定は12:36。羽越本線を発車する特急いなほが発車するのが12:30。予定では13:40の鈍行の予定でした。

 なんと新潟に12:24に到着したのです。そしてすぐの歩行者信号も青!これはなにかの導きではないかと感じ、急いで切符売り場へ。

12:30、奇跡的に特急「いなほ」に乗車することが出来ました。バスに感謝を述べるとともに奇跡を感謝いたします。これで通夜の開始時刻に間に合います。


13:20、村上着。13:37の当駅発の鈍行に乗車します。直近の鶴岡へ行っても結局はこの列車に乗り換えることになるからです。ちなみに懐かしい汽車でした。足下の段の上に缶コーヒーを載せておけば保温してくれる懐かしい車輌です。奥に写っているのはザ・マニアです。


 こうして羽越本線を北上しますと日本海が見えてきます。今日は大雪警報が出ている日ですから日本海の波しぶきも半端ではありません。東映のオープニングクレジットを彷彿とさせる光景でした。


 そして列車が山形県に入ると一気に吹雪が始まり、視界不良が起きました。大雪警報はダテではありません。スピードが出ていませんから心配はありませんが、外にはいたくない光景が拡がっております。

15:28、藤島駅着。ここで交友のある加藤淳さんと合流しました。元祥伝社の編集長を務められた方です。ほかにも1名一緒のようでしたのでお誘いして3名で通夜の会場へ。

16:00、通夜が始まりました。曹洞宗ですが、私の知る形式とは違い、地域の風習を感じます。その分、故斎藤館長の思い出が蘇ります。というか、なんか住職の脇に見えたような……(汗)。大往生だったようで苦しまなかったことを聞いて少し安堵いたしました。ただとても残念です。来年に控えた行事に身命を賭して半ばに逝かれたことを本当に悔やみます。この方がいなければ本当に清河八郎の汚名返上は難しかったでしょう。若いころは清河八郎を真似て睡眠3時間を徹底したことがある方で、お話しには本当に重みのある方でした。おざなりな言葉でしか言えませんが、本当に惜しい人物を失いました。

17:00、読経も終わり、故人を語る会で食事を。故人を偲びながら話に耽りました。

18:00、加藤さんと一緒に鶴岡駅へ。その後、私の列車の待ち時刻を気に掛けてくださった加藤さんの好意でご一緒に会食いたしました。お世話になりありがとうございました。

20:19、鶴岡駅を発車。あたりは完全に暗闇で窓に当たる雪だけが見える景色です。暖かかったので転寝してたら22:02、ホンの少し遅れて列車が村上駅に到着しました。ここで再度鈍行列車に乗換えです。ロングシートでなかったのは幸いでした。ちなみに村上駅構内は売店も閉店して周囲に開いている店は一軒もなし。吹雪が町を漆黒と白のコントラストに染めています。

22:21、列車が発車。やはり吹雪で少し遅れています。新潟に到着したのは23:33。次に乗り換える「ムーンライトえちご」の3分前です。さすがに乗り過ごしたら大変と、すぐに車輌に乗車し、移動が終わり席に到着した時点で発車。さすがに飲み物を買う暇もありませんでしたので、次の新津で飲み物を購入。


 ついでにパシャリ。この列車に乗ってようやく帰路に着くことが出来ました。

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20日
 ようやく作業も進み、ついに年表に入りました。睡眠薬も飲んでしっかり寝ます。

2:30、就寝。

10:00、起床。

 朝からとにかくもバタバタしています。しっちゃかめっちゃかとはこの事です。

11:30、病院で薬を貰い、その足でJRへ。買い足らなかった切符類の購入。ハンパない混雑。こういう時に限って号車、席指定の客が多い。

13:00、帰宅。14:00、バタバタし過ぎで少しダウン、悪寒。

15:00、復活。北海道立文書館の申請書類をもう1回練る。

16:00、新聞社と最後の詰め。

16:50、文書館に追加の話等。親切な方で本当に助かります。

18:00、清河八郎記念館斎藤清館長の訃報に接する。約10年来の交友があり、何かとお世話になった方です。そして何より清河八郎の顕彰の半分は斎藤氏の功績だということを私は知っています。そのため本葬には立ち会えずも24日が会津ですので予定を全部キャンセルして予定の分は23日に圧縮するとして通夜に参列することに決め、帰りも24日の夜帰宅のところ、ムーンライトえちごを利用して25日早朝帰宅へ変更。

18:30、早速西日暮里駅で切符を購入。そのほかSDカードや諸々必要品を購入していたら20:30!!うわぁ(汗)

21:00、旅程変更のため計画表を作り直す。特に23,24日はかなりの変更を余儀なくされました。そして何より困難になった理由はバスが使えないことです。時間を決めて動く関係上、高速無料化の現状、あまりにも危険過ぎます。鉄道マニア垂涎の旅行ですが、本当はイヤです。

 まだまだやる事があり、睡眠時間がどんどん失われていきます。

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