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7月5日、旧水戸藩郷士芹澤家の当主、芹澤雄二氏(中央人物)が逝去されました。
たぶんお会いしたのは10年前だったと思います。ネットで見つけた方々と史跡めぐりする際、無理を承知してお邪魔いたしましたのが最初です。そのときに撮った記念写真はいまも大事に保存しています。
先生は自ら語る方ではありませんでした。しかし、問いについて応えるときの言葉はひとつひとつ沁み入るようで、いつも私は緊張の連続でした。
あるとき、私が開放骨折した際、先生とやり取りがあったため、その旨を手紙に添えたところ、数日後、なにも言葉もなく現金書留が届きました。あのときの感謝と感動はいまも涙がこみあげてきます。
これが原動力となり、三角巾で右腕を吊りながら、当時の旧玉造町庁舎で芹澤鴨の説明を行い、紆余曲折ありましたが、幸運にも2004年には「新選組を創った男の街」として浸透することになりました。
こうして法眼寺には芹澤鴨・平間重助の碑も建立され、滅多にイベントには来られない先生の除幕式はいまも忘れられません。
そして2010年、私が昨年お梅の縁者、菱屋を判明させ、お梅の顕彰を行う際、普段ものごしの静かなお声の先生が大変喜ばれたことは本当にやってよかったと、感じ入りました。
もちろん、芹澤鴨関係だけでなく、芹澤家、そしてスポーツ振興、医学会に大きく貢献した先生の業績は計り知れないものがあり、簡単には数えきれるものではありません。ご本人はただ助力したとしか語らず、しかし、その数は多岐に上ります。茨城県立歴史館に芹澤家文書が公開されているのも先生の功績でしょう。
今後、私に出来ることは芹澤鴨の顕彰、芹澤家の顕彰だと思います。どうか天国で見守ってください。ご冥福をお祈り申上げます。
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