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「慶応四年新撰組近藤勇始末」、「慶応四年新撰組隊士伝」著者、あさくらゆうが書いているブログです。 *なお、画像の無断使用、本来の意図と関係ない部分をツギハギして論争に使用することを固くお断り申し上げます。
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謹啓、

 本日、朝刊各紙に川崎尚之助に関する記事が掲載されたことと思います。

 発見の経緯は東京都公文書館の往復文書です。川崎尚之助の死去の説明に根津親徳が呼び出されたことによります。

 この場合、往復文書ですから東京府にあるなら相手先である開拓使~現在の北海道にもあるだろうと北海道立文書館で検索しました。すると40件(私文書含む)がHITした訳です。

 その後、11月15日、実際に札幌へ文書の調査をした際、その膨大な量から全部を取得できませんでしたがある程度の取得が出来ました。

 そして帰宅してから文書を翻訳し、共同通信にその話を伝えたところ、この記事に至りました。

 今回の発表の成果として、まず川崎尚之助の消息が明治3年10月から同8年3月20日の死去までの足取りがすべて判明したことです。これにより、妻の八重との交際が東京謹慎以降、完全に途絶した状態が如実に解ることとなったのです。

 川崎は結局、取引を主導した米座省三という人物に騙されたのです。米座が借金を埋めるため、事故の起きている広東米の手形を収穫予定の大豆との先物交換取引で纏め上げ、その手形を貰えると思った川崎は予定の手形が入手出来ず、なおかつ張本人の米座は逃亡。米座の借金の返済がなければ渡さないという事態に陥ったのです。

 川崎はこの手形を取り戻すための訴訟を起こしますが、斗南藩はこの取引を川崎と柴太一郎の独断と断罪し、関与を否定しました。当然、大豆取引も成立せずに今度は逆に川崎と柴が訴えられます。

 その間、逃亡中の米座が東京で逮捕され、ようやく手形は川崎の手に入手されます。しかし古米となり、相場も下落して大損害が起きました。ここでも訴訟が起りました。

 結論として3名は今でいう詐欺罪として立件され、米座は拘禁、柴、川崎は保護観察状態に置かれます。のちに川崎が独自に行ったと供述し、今回の事件の中心人物となります。

 しかし、体調を崩した川崎は明治7年に函館へ連行される途中に重病に陥り、安静を余儀なくされます。

 その川崎が函館に行かずに東京へ戻ったのが明治8年2月5日。かなり重症の肺炎だったようで同月7日に東京医学校病院に入院します。

 そして同年3月20日、病院で川崎は死去しました。

 事件については中心人物となっていた川崎が死去したことで相手側の訴えは国に移行しましたが取りあわれずに終焉。柴は禁固百日、米座は禁固2年の判決を受けました。

 いま述べた内容は40点の文書のほか、デュース、ブラッキストン関係の公文書も併せた内容となっております。もしご覧になられるのでしたら北海道立文書館に問い合わせの上閲覧されることをお勧めします。基本的に原本ですので、コピー等は一部を除き出来ませんので、郵送等は不可能です。

 この成果の概要は新島八重を歩く(光人社)で執筆を予定しておりますので、発売予定の2012年5月までお待ちください。お待ちできないようでしたら北海道立文書館で閲覧が可能ですのでどうかご確認ください。ただし活字文書ではありませんので、その点だけはご留意いただきますよう、お願い申上げます。

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