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「慶応四年新撰組近藤勇始末」、「慶応四年新撰組隊士伝」著者、あさくらゆうが書いているブログです。 *なお、画像の無断使用、本来の意図と関係ない部分をツギハギして論争に使用することを固くお断り申し上げます。
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砂の器記念碑の前に座る小畑定義さん

 先日「砂の器」が放送されて、思い出したことがあります。2004年に行った「亀太郎探し」です。

 ことの発端は同年4月、日野市の記者会見で「市村鉄之助は亀太郎の誤りだった」というところから始まります。鉄之助ではない亀太郎とは誰か?日野市ではバトルが展開されました。

 そのころ私は大垣市のタウン誌「西美濃わが街」の執筆で市村兄弟を手がけた関係で、その日野市の関係者と懇意の間柄にありました。なのでこの亀太郎調査に着手した訳です。

 そこに当時の三十一人会会長の林榮太郎氏より武内収太編「箱館戦争」のコピーをいただきました。そこには「霊鷲院過去帖記事摘要」に

出雲国飯石郡宅安村農 畑中亀蔵
二男 亀太郎

とあったのです。箱館戦争に従軍したうち、新選組に参加した兵卒で亀太郎は1名しかおらず、必ずしもこの亀太郎ではないとは思いましたが手懸りがない。この過去帖については後書きなので、あとで亀蔵がこの霊鷲院に事後供養していることになります。その理由もわからない。

 この亀太郎に興味が沸いて7月、いま考えれば本当に興味本位で出雲空港に行き、当時この地域を管轄する法務局で閲覧作業を行いました。

 なお、この住所について、実はすぐに浮かんだのは「砂の器」でした。

「カメダ」→「亀嵩」なら「宅安(たくあん)」→「多久和(たくわ)」ではないかと。

 そして解ったのはこの地名の記載方法は明治22年の市町村合併以前ということでした(のちに相続したのが明治14年なのでそれ以降ということが判明する)。

 法務局で粘ること5時間。5000番台までの土地台帳を閲覧し、多久和地域のみ閲覧いたしました。

 すると「亀蔵」の名前を有するのは1軒のみ。それが小畑亀蔵でした。

 残念ながらこの時点でもう15:00を過ぎていましたのでこれ以上の調査は出来ず、急いで空港へ。そのまま東京へ帰り、その日は仕事をこなして朝帰りでした。

 だけどこの日はめちゃくちゃ暑かった。買ったチェリーコークは不味く、ペプシのキューカンバーの方がマシと、そんな思い出が今も残っています。

 それでも土地台帳の公図の取得は大きかったといえます。こればかりは定点がわからないから直接取得しなければならなかったのです。おかげで管轄する三刀屋町(当時、現在は雲南市)へのアプローチができるようになったのです。

 こうして後日、三刀屋町へ連絡いたしました。すると村会長を経由して回答を得ることが出来たのです。それは、

昔悪いことをした家がある

、ソコではないかと…。

 悪いこととはなんだろう?しかし亀太郎の伝承があるという。そこで8月に三刀屋行きを決行することにいたしました。

(つづく)
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