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「慶応四年新撰組近藤勇始末」、「慶応四年新撰組隊士伝」著者、あさくらゆうが書いているブログです。 *なお、画像の無断使用、本来の意図と関係ない部分をツギハギして論争に使用することを固くお断り申し上げます。
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13日
 なかなか眠れません。というより、起きている時間が時間だから仕方ないですね。

 そういえば、この前は東海テレビのことを書きましたが、現在フジテレビが荒れてますね。

1.朝鮮礼賛を抗議するためデモが発生した
2.日曜のドラマで主人公が着ている服に原爆の愛称がプリントされてた
3.元日本代表のサッカー松田選手の葬儀の現場レポでアナウンサーが談笑していた
4.被災地ボランティアを使ってTV用の舞台設営や案内誘導等をさせた

 2はたぶん衣装さんの偶然性が呼んだものでしょうが、4はいただけません。もし私がボランティアならフジの下請けADに指図された時点でボイコットします。フジテレビはこの部分でやってはいけないことをやったと思う。名鉄観光も見抜けなかったにしても、3,500円支払ってボランティアしようとした方々をフジの下請けの舞台製作係に使ったわけです。返還要求が来たら返す必要も出来るかもしれません。ただ、南三陸町のHPではこのことは謳われておりません。ただ、事実なのは実際にボランティア参加された方がブログ公開されているので解ります。

 なんか、やっていることがどんどん暴露されています。こういうときに慎重さが必要なのかとは思いますが…。

4:30ころ就寝。

17:30起床(汗)きょうはよく眠れました。夢を多く見ました。どうも「信頼」と「信用」が根底にある夢ばかり見ました。1時間くらいは鬱になりました(汗)

20:00、この前の講演で使用した史料を元の場所へ戻し、パソコンのアウトルックを軽くする作業を行いました。けっこう貯まっていたので反故紙がとうとうなくなりました(汗)ファイル2冊分にはなっています。一応受信記録はずっと続けておりますので、今ではけっこうな量になりました。

 こんななかでもウィルスメールを送られる御仁がいます。いいなぁ、暇で。たぶん数年しない内に私以外でも送っているでしょうから、そこからほころびが出て人生でなかなか経験できないことに進むのでしょう。

 このアウトルックの軽減に時間がかかり夜が更けていきます。


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8日
 睡眠導入剤を飲んでも眠れず…。

15:30、起床。

16:00、郵便物を見る。この前嫌な対応だった東京都からだ。

一言、

ふざけるな!

でした。

 まず、一番の怒りを覚えたのは標題に挙げた部署の虚言だ。閲覧記録がないから信用できないとか…。

 ちょっと待て!

 東京都情報公開条例が施行される以前なら閲覧するのに申請書は要りません。その方はコピーせず筆写したのですからコピー代もかかっていません。なので領収書の類も存在しません。そうしてないことを証明とすることは一種の反則です。

 そのようなミスリードを鵜呑みにした東京都情報公開審査会の委員、渡辺忠嗣、鴨木房子、前田雅英、渡井理佳子は建設局に騙されたのか、自身に知能がなくて鼻水たらしながらめくら判を捺したかのいずれかであろう。このうちメルアドを公開していたのは1名のみ。それも気付かないような場所にありました。金目当てで東京都のメクラ判に賛成しているから後ろめたいのでしょう。


 話を戻すと、基本的に建設局のミスリードを中心に会議され、ひどいものに到ってはは、399号に執筆した国井さんの論文は「単なる寄稿文」と一蹴し、そして

異議申立人は、歴史研究上の必要性を強調するが、本件非開示情報1及び2に記載されている被埋葬者は、祭祀する人がいないために無縁仏として改葬された者であり、その死者自身及びその関係者の個人の利益保護の必要性を考慮すると、異議申立人が主張する歴史研究上の必要性をもって、個人の利益保護に優越する公益上の理由があるとは認めがたい

………

 無縁になったのはその家庭にそれぞれの事情があり、当時は永代供養と同じ感覚で年間使用料を支払う感覚がなかったからであり、そしてその管理者が死亡し、かつ東京は関東大震災、東京空襲等で移転を余儀なくされ、昭和23~24年に公示をしたからといって住所が空襲で被災した場所、千葉さなを管理する家(そもそも霊園係の簿冊自体が名前が誤っている)も各所に移転し、住所が違い、代も2代以上に飛ぶことから無縁になったものである。

 それを祭祀する者がいなくなったと決め付けるのは無縁になった方への冒涜であり、東京都によって強制的に無縁にされた者は現在もこの建設局によって隠蔽と捏造により自由を奪われております。

 また、今回の答申で一番驚いたことがあります。なんと関係する名称等がすべて

○○

とされているのです。これは答申について疑念を起こさせないようにする工作です。ネットに掲載するものであればそれでも良いですが(個人的には公開して欲しい)、部内で回す文書まで○○にすれば、間違いなく異議を唱えるきっかけを生みませんから、

東京都建設局公園緑地部公園課霊園係の陰謀といわなければならないでしょう。副知事等にめくら判を捺させるための工作が如実に行われている事実を認識願えればと思います。

 このような事例はこれから絶対に問題が起きます。

 例えば今回の震災で遺体が発見されて、名前が解っても、個人情報の壁により親族を探せずに無縁になった例はいくつもあったはずです。私も支援物資を届けに岩手県宮古市に参りましたが、会った方々の一部からそうした声があったこともご理解ください。

 この一件は行政不服訴訟になるでしょう。戦いはこれから始まります。

 最後に東京都へひと言。後日、八柱霊園の谷中霊園分無縁墳墓に詣でてこのことを地下に眠る方々に報告します。霊園係の担当者に呪いがかかっても私の存知するところではありません。心霊現象は犯罪ではありませんから。まぁ、ダイエットになるでしょうね。


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1日
7:00、起床。

9:35、宮古へバスを。車中、岩手県庁に自衛隊が後方待機している姿を見ます。行きの車中は深夜でしたので周囲が解りませんでしたが、高原だったり渓谷美やらが堪能できました。本当なら道路より線路の方がスキップしてスピードが出そうなのですが、本数が少ないので利用したくても出来ません。

11:45、宮古駅に到着。この宮古で唯一見たかった史跡があったので宮古観光協会へ詳細な場所を確認するために訪問。すると昨日のY事務局長がおられました。お話すると、わざわざ時間を割いて案内をいただきました。

それはココです。


 藤原観音堂です。宮古の戊辰史跡のなかで唯一高台にない地域の史跡です。明治2年に旧幕軍の首なしの遺体がこの浜に打ち上げられて、それを気の毒に思った藤原の村人たちは丁重に埋葬し、翌年には現在の墓碑を建立しています。


 そして昭和に入ってライオンズクラブの方々が基金を募って説明の石碑を建立しています。残念ながらこの石碑が今回の津波で前傾しています。復興が終了すれば再度土台を固めて復旧することでしょう。


 これが本体です。小振りですが藤原の方々の想いがこの墓石を守ったのでしょう。無傷でした。毎年藤原の方々の手で供養されております。

 なんでも、この宮古のこの墓石が流失したと勘違いして、最近発刊された「新選組を歩く」の出版社へクレームをつけた御仁がいるとか。地元の情報も耳にしないでデマを流すのはいかがとは思います。なかには誤解された方もおりましたが、普通はそこまでで、出版社にまでクレームをつけるのは異常としか言いようがありません。今回のように誤報だった場合、この御仁は出版社に陳謝するのか?まずしないでしょうね。実はMIXIのつぶやきで少し書いたのですが(それも匿名で)、なぜかその御仁に伝わったようで、その後に変な記事が掲載されておりました。もちろん犯人探しをするつもりはありませんが。

 事実と違うと言うなら1次史料とそれを補う傍証がなければそう簡単に覆るものではありません。それができないなら単なるクレーマーでしかありません。ともあれ、怪しい情報にはじゅうぶんにご注意を。

 この案内をしていただきました観光協会のYさんには本当に感謝申し上げます。途中、この沿線を走っていた釜石線の磯鶏~宮古の惨状も見分しました。まず、線路が転がっているが、どこに本来の線路があったのかまったく解りません。路盤はしっかり流されており、その周辺は住宅とともに完全なフラットになっています。一応手前に堤防があったのですが、津波はそれさえも乗り越えたのでしょう。この日も津波の脅威を知ることになりました。帰りがけに閑伊川を見ましたが、釜石線の鉄橋だけ流失してました。たぶん復旧は年内ということですが、相当な困難があることでしょう。この日も津波の脅威を心に刻まれることになりました。幸いだったのはYさんの自宅は高台で無事だったことです。ただし実家は流失しておりますので実家の方と同居生活だそうです。

閑話休題、

13:00、偶然、チーム誠を合流しまして、宮古海戦の会の伊藤さんともお会いできました。そこで一緒に食事をしまして、一行はこの後、伊藤さんとともに史跡めぐりを。私はすでに拝見しておりますので駅で待機を。

 でも駅を見回していると、いろいろなものが目に見えてきます。駅は運良く被災しなかったおかげで唯一のインフラとなっています。土産物をいくつか購入してまったりと。

15:00、チーム誠と合流して一路南へ。渋滞はなかったのですが、本来かなりの遠距離なもので、郡山へ到着したのは23:05。各種チーム誠にはお世話になりました。この場で感謝申し上げます。

 この時間ですのでJRはありません。ネットカフェでも探そうかと思いましたが、「ドリーム福島」があることを確認。なぜか高速バスネットで検索できなかったのですが、これに運良く乗車。23:50発に乗車し、5:00、東京駅着。無事に帰宅いたしました。


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 ボランティアの後、宮古観光協会へ。日野、会津、そして微量ながら私も支援物資をお届けいたしました。観光協会の方々は私たちを暖かく出迎えていただき、この宮古の現状をお伝えいただくために現地視察に同行いたしました。

*の区域は立入禁止区域です。


 宮古市内。国旗がなにかを訴えています。


 宮古市内。本来は浄土ケ浜の観光船が陸に打ち上げられています。


 *浄土ケ浜。道路はアスファルトの下部が抉れて大変危険な状態です。当然立入り禁止区域です。なお、小島の木々もいくつもがなぎ倒され、はげ山になっています。


 *田老地区唯一のホテル。3階まで被災しているように見えますが4階まで被災しています。


 *当地域自慢の防潮堤の跡。水門のみが残り、跡形もありません。


 *壁面。歩道の柵の曲がり具合でいかに高い位置まで津波が襲撃したかを物語っています。

 これは嫌われるのを承知で申しますが、私たちは観光協会のご好意でこの被災地の姿を拝見しております。個人的興味で行くことは大変危険です。特に浄土ケ浜や田老地区は道路が寸断し、一部地域ではまだ遺体の捜索範囲に入っております。ですので未だガレキではあって倒壊の危険があり、二次被災する可能性がじゅうぶんにあります。ですので、くれぐれも物見遊山には行かれないことをお願い申し上げます。見物人のために機動隊、自衛隊は本来の活動ができなくなります。


 被災地を終えて、私のみチームから離れて盛岡に宿泊しました。そのとき三陸鉄道の終列車を撮影しました。ガレキのなかをこの三陸鉄道は走っています。11日の被災にも関わらず、電気を失われた同鉄道幹部は車輌を対策本部として使用し、翌日にも復旧可能な地域は全力でガレキを撤去し、なんと16日に小本まで運転を再開しています。これがどれだけ被災者の心を救ったでしょう。この三陸鉄道の根性といい、宮古観光協会の会長や事務局長の笑顔。この惨状でも挫けずに励んでいる姿に、いままで自分はずいぶん楽をしていることに悲しみを覚えました。そして一生この姿は目に焼きつくでしょう。

 きっと復興できます。宮古は不滅です。


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チーム誠

6:00起床。身体が弱くなった身には堪えます。


7:00、食事です。本来はリゾートホテルなのですが、こうした朝食はありえないでしょう。でもありがたくいただけることが感激です。夜には気づかなかった機動隊の方たちは宿泊部屋はなく、主に宴会場です。それ以外も隙間があるところには仮の仕切りを作って就寝場所を設けています。ホテルのキャパの3倍以上は宿泊しているものと思われます。こんな環境でも文句のひとつもなく、黙々と作業されている機動隊の方たちに感謝を述べたいと思います。

8:30、ボランティア登録のために宮古市社会福祉協議会へ。閑伊川を渡った自動車教習所の手前にあります。


 さっそくチーム誠はボランティア登録を行います。私もおまけみたいなモノですが、登録しました。

 ここに来るとボランティアのためにキャンピングカーでお越しの方、大きなテントがあったりと、ボランティアの気合の入れようが解ります。集まった方も様々で、日本を助ける義侠心に溢れる方々がコンなにもいるのかと感動いたしました。

 また、ボランティアのためのボランティアという方もおりまして、コーヒーの無料提供や軽い朝食が提供されておりました。

9:30、市の職員による説明が始まりました。本日の作業は芝生の復帰作業でした。津波による泥が芝生を蔽っているため、それを取り除き、かつ、その汚泥を土嚢にして復旧工事に使えるようにします。運良く社会福祉協議会のすぐ側が閑伊川でしたので徒歩移動で参ります。

 ボランティアの感覚はさまざまで、なかには職員に「オレはもっと出来るのだから違う仕事をさせろ!」と言っているのを見かけました。ガレキ撤去は自衛隊や機動隊が分散して活動をしています。また専門職の方々が一生懸命危険を賭して頑張っています。下手にボランティアが行って自身が被災者になるという、2次被災のことを考えないのでしょうか?

 せっかく善意で集まっている方々を危険に遭わせる訳にはいかないのです。市の配慮も考えていただきたいものです。

 ということで10:00より作業開始。私たちは最初、泥だけでなく、杭石の除去を行いました。けっこう転がっており、約50個は集めたでしょうか?

 それから本来の仕事である芝生の表面を蔽っている汚泥の処理です。私は道具を持っておりませんでしたので、ブラシを使い、シャベルで取り除いた場所にブラシをかけて、芝生を綺麗にする作業を行いました。汚泥は亀裂を生じておりますので範囲は解り易かったと思います。


 この公園は「ふるさと公園」といい、本来なら桜の名所として花見客もチラホラする場所だそうです。隣接して「あやめの里」があります。1ケ所だけ案内板が軽微な被災だったため、津波前の状態がわかりますが、あったと思われるテニスコートやお花畑はもう定点を探すのは不可能な状態です。そしてトイレも本来は移動式だったものが逆方向から津波が来てしまい、その機能は使えずに、横面からなにかが突っ込んだようで破壊されており、柵で覆われた付帯施設も斜め45度にひしゃげて使用不能の状態に陥っています。川にはいまも自動車が2台沈み、現在の市の活動の限界を示しています。もちろん遺体収容は優先されましたのでそういった悲惨なことはありません。あと小型舟が2隻ありました。うち1隻は取りに来るとの記述がありました。

 基本的に肉体労働ですので、1時間毎に休憩もあり、12:00には昼食です。13:00に作業を再開して14:00に休憩、そして15:00には終了します。ボランティアの活動はココで終了します。ボランティアさんの方々の意気込みは凄く、あっという間に用意していた土嚢袋の量を超えてしまい、仕方なく、道路脇に積み上げることになるくらいでした。

 帰りに土手を登ると、一面汚泥で濃茶の地面が、少しですが芝生の見える土手になりました。ひとりの力は小さいですが、大勢があつまるとこんなことも出来るものかと感動いたしました。

 なお、私は明日のボランティアはリタイアです。なにしろ持参したブーツが破壊されまして(汗)それと携帯電話のインフラが難しいということもあり、一同とは別の場所に宿泊します。

 社会福祉協議会へ戻ると、さきほどの炊き出しがおり、飲食物を提供しておりました。さすがに食欲はなくあきらめました。

 これより観光協会へと迎います。


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