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「慶応四年新撰組近藤勇始末」、「慶応四年新撰組隊士伝」著者、あさくらゆうが書いているブログです。 *なお、画像の無断使用、本来の意図と関係ない部分をツギハギして論争に使用することを固くお断り申し上げます。
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9日
7:00、起床。きょうは区の無料検診があるので食事抜き。

10:00、検診するも、問診で却下に!難病持ちはいけないようです。というか、今どき胃の検査でバリウムもいかがなものか…。ちなみに肺と大腸は違うところで検査を受けるので、結果的に無料検診は無駄足に。

11:00、帰宅。具合悪く、就寝。

14:30、起床。ダルさが抜けず。

16:00、「相棒」鑑賞。あまり覚えていない回だったので良かったです。このあたりで新島博物館より年報が届きました。流人帳を2度に分けて掲載されています。資料集として助かります。

17:00、電話。編集協力の話。ある程度のプロットを固めるよう懇請。

19:00、一応方向性が決まります。この後、幾度か連絡。

10日
 先日の竹内さんの電話で坪井為春が気になり、ネットで調べる。どうやら墓所は谷中霊園にあるそうだ。

 なので、当時の住所がわからないかと、調べてみると本郷区にありそうだ。ということで、戸籍コレクションを確認すると、坪井為春はありませんでしたが、その長男(戸籍上)、坪井次郎の除籍謄本がありました。文久2年7月5日に生まれ、明治36年7月13日に京都で死去しています。

 ちなみに為春の妻も「母」の表示で、継母扱いにはなってませんでした。坪井やなは天保4年3月10日に生まれており、鹿児島県士族村井艱脩妹とあります。

 「人事興信録」では名前のみ記載があり鹿児島県士族とされていますが、為春が薩摩藩士扱いなのでそうなるのでしょう。

 ついでに坪井本家を継承した坪井信良の記載もあり、妻(後妻)が「舊幕士荒井清兵衛長女」とありました。幕臣でこの時期、荒井清兵衛といえば、代官であり、荒井郁之助の父になる人物と同一でしょう。たぶん清兵衛を活かしたのには、「荒井郁之助姉」にすると「平民」になってしまうからだったからかもしれません。

 身体が楽だったらそろそろ国会図書館にも行きたいので、見たい書籍を探り、そしてかねてより気になっている田崎公司氏の論文もチェックします。

5:30、ようやく睡魔がきて就寝。8日の筋肉痛と衰弱によりカブレでなかなか寝付けませんでした(汗)

13:30、起床。まぁまぁな状態。明日が雨の予報なので無理して国会図書館のみ行くことを決めます。

15:30、国会図書館に到着。本館2Fの検索機で書籍、雑誌の予約を済ませてから4Fの憲政資料室へ。ここには勝海舟文書があり、蕃書調所の人名録があります。さっそく閲覧申請して閲覧しますと、坪井芳州の記述がありました。芝に住居があり、出石藩士の加藤弘之(弘蔵)も坪井家に同居となっていました。山本覚馬が大木衷域の蘭学塾にいたと言いますが、坪井芳州の前名が多き忠益で、たぶん口述だったので名前間違いだったのでしょう。一説に、なにかの雑誌の記事に川崎尚之助がここで学んでいたとあるそうです。これなら医師と勘違いされても不思議ではありません。大鳥圭介が同期になりますが、会津で会ったのでしょうか?

 憲政資料室を出て、仲井一信氏、斉藤祥男氏の著作を閲覧。意外に「坪井やな」等の出自が不明となっており、感嘆す。考えてみれば、坪井の謄本自体は壬申戸籍以外は本郷区なので昭和20年の空襲で原本が焼失していますので仕方ないのかもしれません。

 交互に新館で田崎公司氏の論文が掲載されている大阪商業大学の論文集を閲覧。2編をコピーに。それと前より気になっていた史学雑誌の論文を閲覧。これも内容が濃いのでコピー申請。個人的には参考文献に挙げている佐藤公彦氏の論文が掲載されている雑誌はデジタル化するために製本中だとか。見れなかったので残念です。どうしても若松民政局の内容に納得いく知識を得たいので飢えています。それでも田崎論文でかなり詳細に理解ができそうで、計3点をコピー申請。

 それと東京医事新誌を閲覧。斉藤氏の参考文献にあり、同書に活字化されていますが、原本に興味があり、マイクロフィッシュで閲覧&コピー。歯抜けが多いなか、残存していてくれて助かります。

 こんなことをしているうちに、19:00になり閉館。コンビニ等に寄って20:40に帰宅。

21:00、「TVなんでも鑑定団」を鑑賞。やや面白し。

 こうして夜は更けていきます。
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 今回、川崎尚之助を追う際、気になっている人物がいます。

 根津親徳です。

 解っているのは父親が会津藩士、そして斗南移住した根津親久の息子であり、会津会会報10号が発刊された時点では存命だったことです。

 根津親徳は「根津金次郎」と紹介されることが多いですが、一番有名にしたのは「思案橋事件」です。

 ことの発端は同じく会津藩士だった永岡久茂が長州藩の前原一誠とともに蜂起するというもので、新政府の抗した事件のひとつです。

 運悪く、永岡たち10数名は思案橋で船に乗船し、千葉へ行き、千葉の同志とともに襲撃計画を起こす予定でしたが、不審に思った船頭の通報に加え、この計画は根津親徳と平山主一(会津藩士)の密告により警視庁の巡査たちと格闘し、捕縛されました。つまり事件は未遂に終った訳です。

 個人的には根津が密告したかどうかはともかくも根津と川崎の交友が何だったかということも興味の対象です。周辺の人物は4月に二子玉川に仮移転する東京都公文書館のDBでわかることもあるかと思いますが、どうも不可思議なことが多いです。

 まず、根津家のルーツがわかりません。会津藩に根津家は何軒もあるようですが、高禄の家は2軒です。このうち1軒は根津金次が戸主で、かの会津籠城戦で城中を執り仕切った根津安尾はこの家系になります。もう1軒残った根津家については善龍寺が菩提寺とありますので確認したいと思います。なお、根津家は斗南移住の前に古平にいたという可能性があり、それも悩みどころです。解っていることは、親徳は明治6年には東京におり、明治8年には永岡久茂方に同居しており、思案橋事件では共犯扱いを受けながらも無罪となっています。

 なお、私は東京出身ですので思案橋について述べます。

 思案橋は日本橋堀留町の町名に由来するとおり、日本橋の下流に2本の堀がありました。日本橋川から掘削された堀でして、日本橋寄りの方が西堀、下流側が東堀となります。主に物流に利用されました。余談ですが、千葉定吉が最初に住んだのも東堀のたもとです。思案橋はこの東堀の一番下流、日本橋からから分岐してすぐのところに架橋されておりました。


 この画像がいま残る最古の思案橋の画像なのですが、明治36年に架橋されたものです。ですので永岡久茂が事件を起したときに架橋されたものではありません。この写真の橋も見ての通り木造ですので長持ちしないのでしょう。

 この橋も大正12年の震災で被災し、昭和3年に鉄筋の橋に架橋されています。このときに思案橋から小網橋に名称変更されています。

 で、この橋は昭和23年、東京の空襲によって生じたガレキ処理をする際、ガレキ処理のための埋め立て計画の対象となり、消滅しました。たぶん河口附近の橋でしたから一番最後に外されたのでしょう。いまも橋があった名残で道路が盛り上がっています。

 個人的には根津親徳が大正年度まで存命だったことはわかりましたが、消息等、ご存知の方がいらっしゃればご教示願えれば幸いです。

 なお、根津家の本籍地は明治14年時点では大畑村(現青森県むつ市大畑)にあったようです。

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 近藤勇忌に参加する目的ですが、実はほかにも目的がありました。それが会津藩家老田中土佐の息子、田中左内の墓詣ででした。

 地図を見てもよく理解できませんでしたが、まず見つけたのがココでした。


 早乙女貢氏墓所を右に見ながら坂を登り、しばらく行くと左手に会津藩家老田中家墓地への入口があります。上がりますと代々の田中家当主等の墓所が存在します。ここに田中土佐の墓はあるのでしょうか?

否!!

 そんなに甘いものではありません。この墓所にあった「東口」という言葉に疑念を持ち、探しました。


 まず近藤勇墓所への道にある分岐を右へ折れます。近藤勇の道と違い、そんなに立派な道ではありませんが、右手に墓所がチラホラ見えますので墓所へ向かう道だということは判断出来ます。


 進むと遠山家の戊辰戦死墓を見つけることが出来ます。その奥にある南摩家墓所の奥に続く道を進みます。


 いったん奥まで進むと行き止まり風な感じになります。しかしよく見ると左手に伐採の跡が存在します。林業のために出来た道なのか、土石流の跡なのか迷うような道?ですが、急な坂道を登ってみます。


 しばらく登ってもこんな感じで荒れてます。たぶん今年訪れた方はヒトケタもいないのではないでしょうか?運がよかったのは寒気のためか、蜘蛛がいません。で、ようやく頂上に近くなると墓碑が見えてきます。


 田中家墓所への標石です。境界石でも水栓みたいなもので、夏で草が繁ると見えなくなるかもしれません。


 ここが幕末の当主、田中土佐のある墓所です。右から数えて3番目の墓所がそうです。けっこう痛みはありますが、文字は読むことが出来ます。

 まだ会津藩の暗躍史は埋没している部分は多いですが、ひとつずつ解いていきたいと思います。


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 この1年振り返って見て、昨年の龍馬伝でいくつも千葉家関連の発掘をしてまいりましたg、どこをどう間違うとこうなるのか。少し不思議な間違いを列挙してみます。

1.千葉さなが開業したのは灸治院であって、鍼灸院ではないこと。

 昨今は灸と針を一緒に開業していることが多いのようですが、千葉さなはお灸のみです。針はやっていません。本家の千葉勝太郎は逆に鍼のみです。ごっちゃになるとおかしくなるので申し上げます。

2.甲府に千葉さなの墓を建立したのは小田切謙明ではない。

 小田切謙明が死去したのは明治26年4月9日です。明治29年に死去した千葉さなの墓を建立することはできません。バイオハザードではないのですから(汗)あのお墓は顕彰墓であり、千葉さな死去後、ずいぶん経って謙明氏の妻、豊次が建立したものです。なお、千葉さなは谷中霊園に土葬されており、昭和24年に無縁改葬するまで手つかずでしたので、甲府の墓所にあるのは遺品だと思われます。

3.本人は「佐那」を名乗っていない。

 「佐那」の名称は父定吉が付けた当て字で、安政3年に宇和島藩に召された際についたものと考えられるが、明治以降、戸籍にしても、本人の署名についても「佐那」ではなく「さな(佐奈)」を正字としています。本人がこの「那」を嫌がっていた証拠です。なので当ブログ、および執筆関連では「千葉さな」を称しています。

4.千葉周作は浪人ではない

 意外に高齢者の方に多かったのですが、千葉周作は浪人の時期はありましたが、天保12年(1841)より水戸藩士となっております。なので「雇」でもなく、陪臣でもなく、れっきとした藩士です。周作死後は栄次郎と道三郎が各々別に藩士として登用されており、明治維新のときには茨城県士族に千葉家は2家だったことが確認されております。

5.板垣退助は千葉灸治院には来ていない

 当時板垣は内閣の一員でしたので当時の新聞に毎日の行動日誌が掲載されています。なお、明治10年代に日光まで鉄道が開通しており、馬車で移動した際寄ったのだ!と申される方がいましたが、板垣が千住に寄った記録はなく、日光方面の遊説には列車で移動していましたので、途中下車した場合記録に残りますからこれも誤りです。

6.学習院にいた記録は一切ない

 千葉さなの履歴を見る限り、毎日新聞「千葉の名灸」でも千葉さなが学習院の舎監をしていたとされる記録は一切ありません。千葉さなは明治15年春には灸治院を開業しておりますので、舎監ができる訳もなく、前年は山口菊次郎と離婚し、千葉重太郎(一胤)と一緒に京都へ出向いています。学習院の前身、華族女学校が開設されたのは明治11年ですから無理です。たぶん千葉一胤の娘、千葉しのと間違われた可能性はあります。華族女学校ではありませんが、開拓使附属女学校に通って成績優秀で下賜品を賜っています。のちに京都に行き、学業関係に従事されたそうです。

7.生涯独身に固執する方が多い

 毎日新聞「千葉の名灸」を調査分析した結果ですが、申し訳ありませんが、殆どの方について、系統、姻戚関係が立証されております。なので千葉さなだけが別ということはおかしい話です。ひどいもので、ヒステリックなとある団体は「戸籍がないから信用できない」と申しておりますが、逆に「あったら請求できるの?」と聞き返したいものです。明治10年代は壬申戸籍にあたり、もし現存していたとしても現行法上では閲覧、取得はできないのです。この1点で責めてくる団体、個人がいたならその人物自身に信憑性が存在しないと思う方が懸命です。

8.高本薫明氏の「千葉灸治院」は創作

 よく生涯独身説の方が引用する同氏のコラム(土佐史談170号)ですが、これは阿井景子氏の創作、「龍馬のもうひとりの妻」の引用です。その証拠に同作のセリフがそのまま引用されている部分があります。


 少し、一回整理する必要と、誤った記述が多かったこともあり、私の公式見解とさせていただきたいと思います。


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