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「慶応四年新撰組近藤勇始末」、「慶応四年新撰組隊士伝」著者、あさくらゆうが書いているブログです。 *なお、画像の無断使用、本来の意図と関係ない部分をツギハギして論争に使用することを固くお断り申し上げます。
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 この1年振り返って見て、昨年の龍馬伝でいくつも千葉家関連の発掘をしてまいりましたg、どこをどう間違うとこうなるのか。少し不思議な間違いを列挙してみます。

1.千葉さなが開業したのは灸治院であって、鍼灸院ではないこと。

 昨今は灸と針を一緒に開業していることが多いのようですが、千葉さなはお灸のみです。針はやっていません。本家の千葉勝太郎は逆に鍼のみです。ごっちゃになるとおかしくなるので申し上げます。

2.甲府に千葉さなの墓を建立したのは小田切謙明ではない。

 小田切謙明が死去したのは明治26年4月9日です。明治29年に死去した千葉さなの墓を建立することはできません。バイオハザードではないのですから(汗)あのお墓は顕彰墓であり、千葉さな死去後、ずいぶん経って謙明氏の妻、豊次が建立したものです。なお、千葉さなは谷中霊園に土葬されており、昭和24年に無縁改葬するまで手つかずでしたので、甲府の墓所にあるのは遺品だと思われます。

3.本人は「佐那」を名乗っていない。

 「佐那」の名称は父定吉が付けた当て字で、安政3年に宇和島藩に召された際についたものと考えられるが、明治以降、戸籍にしても、本人の署名についても「佐那」ではなく「さな(佐奈)」を正字としています。本人がこの「那」を嫌がっていた証拠です。なので当ブログ、および執筆関連では「千葉さな」を称しています。

4.千葉周作は浪人ではない

 意外に高齢者の方に多かったのですが、千葉周作は浪人の時期はありましたが、天保12年(1841)より水戸藩士となっております。なので「雇」でもなく、陪臣でもなく、れっきとした藩士です。周作死後は栄次郎と道三郎が各々別に藩士として登用されており、明治維新のときには茨城県士族に千葉家は2家だったことが確認されております。

5.板垣退助は千葉灸治院には来ていない

 当時板垣は内閣の一員でしたので当時の新聞に毎日の行動日誌が掲載されています。なお、明治10年代に日光まで鉄道が開通しており、馬車で移動した際寄ったのだ!と申される方がいましたが、板垣が千住に寄った記録はなく、日光方面の遊説には列車で移動していましたので、途中下車した場合記録に残りますからこれも誤りです。

6.学習院にいた記録は一切ない

 千葉さなの履歴を見る限り、毎日新聞「千葉の名灸」でも千葉さなが学習院の舎監をしていたとされる記録は一切ありません。千葉さなは明治15年春には灸治院を開業しておりますので、舎監ができる訳もなく、前年は山口菊次郎と離婚し、千葉重太郎(一胤)と一緒に京都へ出向いています。学習院の前身、華族女学校が開設されたのは明治11年ですから無理です。たぶん千葉一胤の娘、千葉しのと間違われた可能性はあります。華族女学校ではありませんが、開拓使附属女学校に通って成績優秀で下賜品を賜っています。のちに京都に行き、学業関係に従事されたそうです。

7.生涯独身に固執する方が多い

 毎日新聞「千葉の名灸」を調査分析した結果ですが、申し訳ありませんが、殆どの方について、系統、姻戚関係が立証されております。なので千葉さなだけが別ということはおかしい話です。ひどいもので、ヒステリックなとある団体は「戸籍がないから信用できない」と申しておりますが、逆に「あったら請求できるの?」と聞き返したいものです。明治10年代は壬申戸籍にあたり、もし現存していたとしても現行法上では閲覧、取得はできないのです。この1点で責めてくる団体、個人がいたならその人物自身に信憑性が存在しないと思う方が懸命です。

8.高本薫明氏の「千葉灸治院」は創作

 よく生涯独身説の方が引用する同氏のコラム(土佐史談170号)ですが、これは阿井景子氏の創作、「龍馬のもうひとりの妻」の引用です。その証拠に同作のセリフがそのまま引用されている部分があります。


 少し、一回整理する必要と、誤った記述が多かったこともあり、私の公式見解とさせていただきたいと思います。


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