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「慶応四年新撰組近藤勇始末」、「慶応四年新撰組隊士伝」著者、あさくらゆうが書いているブログです。 *なお、画像の無断使用、本来の意図と関係ない部分をツギハギして論争に使用することを固くお断り申し上げます。
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 今回、川崎尚之助を追う際、気になっている人物がいます。

 根津親徳です。

 解っているのは父親が会津藩士、そして斗南移住した根津親久の息子であり、会津会会報10号が発刊された時点では存命だったことです。

 根津親徳は「根津金次郎」と紹介されることが多いですが、一番有名にしたのは「思案橋事件」です。

 ことの発端は同じく会津藩士だった永岡久茂が長州藩の前原一誠とともに蜂起するというもので、新政府の抗した事件のひとつです。

 運悪く、永岡たち10数名は思案橋で船に乗船し、千葉へ行き、千葉の同志とともに襲撃計画を起こす予定でしたが、不審に思った船頭の通報に加え、この計画は根津親徳と平山主一(会津藩士)の密告により警視庁の巡査たちと格闘し、捕縛されました。つまり事件は未遂に終った訳です。

 個人的には根津が密告したかどうかはともかくも根津と川崎の交友が何だったかということも興味の対象です。周辺の人物は4月に二子玉川に仮移転する東京都公文書館のDBでわかることもあるかと思いますが、どうも不可思議なことが多いです。

 まず、根津家のルーツがわかりません。会津藩に根津家は何軒もあるようですが、高禄の家は2軒です。このうち1軒は根津金次が戸主で、かの会津籠城戦で城中を執り仕切った根津安尾はこの家系になります。もう1軒残った根津家については善龍寺が菩提寺とありますので確認したいと思います。なお、根津家は斗南移住の前に古平にいたという可能性があり、それも悩みどころです。解っていることは、親徳は明治6年には東京におり、明治8年には永岡久茂方に同居しており、思案橋事件では共犯扱いを受けながらも無罪となっています。

 なお、私は東京出身ですので思案橋について述べます。

 思案橋は日本橋堀留町の町名に由来するとおり、日本橋の下流に2本の堀がありました。日本橋川から掘削された堀でして、日本橋寄りの方が西堀、下流側が東堀となります。主に物流に利用されました。余談ですが、千葉定吉が最初に住んだのも東堀のたもとです。思案橋はこの東堀の一番下流、日本橋からから分岐してすぐのところに架橋されておりました。


 この画像がいま残る最古の思案橋の画像なのですが、明治36年に架橋されたものです。ですので永岡久茂が事件を起したときに架橋されたものではありません。この写真の橋も見ての通り木造ですので長持ちしないのでしょう。

 この橋も大正12年の震災で被災し、昭和3年に鉄筋の橋に架橋されています。このときに思案橋から小網橋に名称変更されています。

 で、この橋は昭和23年、東京の空襲によって生じたガレキ処理をする際、ガレキ処理のための埋め立て計画の対象となり、消滅しました。たぶん河口附近の橋でしたから一番最後に外されたのでしょう。いまも橋があった名残で道路が盛り上がっています。

 個人的には根津親徳が大正年度まで存命だったことはわかりましたが、消息等、ご存知の方がいらっしゃればご教示願えれば幸いです。

 なお、根津家の本籍地は明治14年時点では大畑村(現青森県むつ市大畑)にあったようです。

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