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「慶応四年新撰組近藤勇始末」、「慶応四年新撰組隊士伝」著者、あさくらゆうが書いているブログです。 *なお、画像の無断使用、本来の意図と関係ない部分をツギハギして論争に使用することを固くお断り申し上げます。
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27日
11:00、起床。睡眠薬が効きすぎました(汗)

 そんなものだから頭の回転も遅く、それでも既存のファイルから必要な部分を抜きます。大まかに予習できてきました。

 なにせ3日に講演も迫りましたので大体の話の形は決めております。裏取りでいくつも資料があるのでややこしいのが難点です。180度違うものがあったりと、また浪士組名簿でも同様です。

 浪士組名簿はその性質上、自身で作ったものより作ったものを写したものが多いので、芹澤鴨の年齢が32歳説が多くなるのはそういうことでしょう。

 長岡勢も小金屯集から始まりいくつか変遷がありますが、おおまかな首謀者はわかりますが、誰が首謀者として相応しいのか決めたのか、悩むところです。ややこしいところでは神官組はほとんど名前が出てきません。玉造勢については安政5年に中野仲が小石川藩邸に訪れたり、同6年には野口哲太郎が切腹未遂を起こしたりと、チラホラしています。

 玉造勢自体も幹部と行動を一にしない部分が万延2年の献金活動だったり、それが東禅寺事件の資金に使用されたりと、幹部の構想と必ずしも一致しないことも多くあります。当然扱いはこの日を契機に過酷になります。

 普通なら死んでる方も多かったようです。たくさん幽囚中に死亡しています。そのなかで生き残ったのが芹澤鴨や新見錦だったのでしょう。

 でも、この玉造勢に参加した人間で後世まで生存した方は少なかったですね。唯一私の手持ち史料に本間栄七のものがあります。不思議な縁で、慶応4年には山岡鉄太郎の手下となります。

 もちろん2時間の講演ですが、どこまでお話するかは自身の能力になるでしょう。

 で、連絡を寄越さない東京都へ連絡。担当が替わったとかで16:55に返信があり。…というか、25日に決まったことを覆したり、八柱霊園事務所に責任転嫁したり、怒ること暫し!たぶん個人感情だけで対応されているのでしょう。この報復もあることを前提に対象も必要なのかと夜、布石を打つ。発動したくはありませんが……。ただ徹底的に抗戦します。これは宣言します。

 そんなことをしてたら時間は過ぎて、気がついたら18:30!急いでリフォーム屋へ行くと業務時間短縮で閉店…。仕方ないので図書館で本を借りました。今回の茨城の史料として使います。

 それにしても改めて現在の鉾田市を見ると旗本の相給地が多いですね。大洗に近いところには守山藩(松川藩)があり、石岡藩の飛び地もあります。水戸藩領はかなり少ないですね。このあたりが天狗党の発生の起因と関係ができるのではないかと思います。

 この表が22:30に完成。

 しかし、この後、なかなか眠れず、探し物も見つからないままにあきらめて3:00就寝。


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