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「慶応四年新撰組近藤勇始末」、「慶応四年新撰組隊士伝」著者、あさくらゆうが書いているブログです。 *なお、画像の無断使用、本来の意図と関係ない部分をツギハギして論争に使用することを固くお断り申し上げます。
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 18日、TBSの「運命の人」を観ました。沖縄返還の密約問題を山崎豊子が小説化したものです。登場する人物はほぼ実在する者で、山部記者は渡辺恒雄をモデルにしたことで本人からクレームがつくというエピソードも生まれました。

 私の一家の墓所の向かいには石川啄木一族の墓所があります。あの「一握の砂」で有名になった啄木です。私は自分のことを「一握の砂」と思っています。

 私はある方から「あさくらさんは歴史研究家というよりジャーナリストだ」と言われたことがあります。真実が闇に隠蔽されたことを暴いたこともあり、2010年の「千葉さな結婚報道」は正に衝撃を与えたと思います。

 それも今頃、揺り返しが起きているのも事実です。あったとしても入手不可能の戸籍がないことが良いことに、「証拠がない」と騒ぐ輩もおります。こうして真実を捻じ曲げる人物は往々にして現れることがあります。ましてやこれが官庁、組織であればなおさら隠蔽に走ることがあります。

 昨年、東京都情報公開条例の9条を楯に公開請求を行ったところ、御用学者で固められたチームに加え、都庁側からは暗に「認めてはならない」と因果を含めた議事資料を配布して、理論上通るものを通らなくされたことがあります。結論的には意表を尽く別の作戦により閲覧が可能とはなりましたが、あくまでも公明な路線での公開ではありません。

 ただ、閲覧が困難な史料や困難な調査を乗り超えたことが幾つもあるということは私の誇りでもあり、これからも変わらないポリシーです。

 いま、私が取り組んでいるのは「新島八重を歩く」ですが、これもすでにすべて原稿は入稿されておりあとはゲラ待ちという段階まで来ております。なのでココに書くべきものはすべて終了しております。

 実は、いま、単著で山本八重と覚馬、川崎尚之助のことを書こうと史料を収集しております。これは話しを進めているところがあり、原稿を書く前段階、つまり史料不足と感じているところから、鋭意史料の入手を行っているところです。

 この作品でいま、そのなかで苦悩を抱えているのが「会津の戦後」です。過去に友人が同人誌で指弾しておりましたが、どうも疑問点がありました。

 先に会津の歴史を例えるなら、「まぶしいばかりの光を放つ歴史」が主流となっています。しかし、それを「否」と例える一群もいるのも事実です。光が足りないからより多くの光りを放てるようにデコレーションしたのが、レジスタンサーが唱える「会津観光史学」な訳です。

 ただ、ここで考えていただきたいのですが、Aという人が文章を書く。気に入らないのでBがAを批判する。しかし、CもBが気に入らないとして批判する。

 ここに現れているのは批判だけであり、真実の追究もマクロで留まり、全体を俯瞰する歴史が構成されていない。当然Aも批判されているのであるからデコレーションによって批判を浴びている訳でこれも真実ではない。

 戦争というものは外戦でも内戦でも実際に人が傷つき、加害者もいれば被害者もいます。直接加害者の正義は勝者にある場合が多い。被害者は勝者には文句は言えません。しかし、これを観光というポジティヴな御旗を用いることで勝者への抵抗を行う。つまり、こうした内容のものは直接の関係者が述べるのは、その部分だけを証言するに留め、それを構成する者に委ねなければいつまでも正しいものは構成されません。「観光」という名目を使用した批判に過ぎません。

 今回、会津の戦後を考えたとき、隠してはならない「贋金問題」を隠蔽しました。実は贋金を作ったものにも「レジスタンスの正義」である者もおり、しかし、それは正に正邪を兼ね備える「諸刃の剣」であり、当然、便乗する悪人も現れます。しかし、その悪人と正義の者が同一視されるのは当然のことで、一方を隠すならもう一方を隠さなければいけない、ジレンマを抱え、結論的に隠蔽したのは隠しようがない真実です。

 もちろん、ここにいう「正義」とは敗者による正義であり、勝者にとっての正義ではありません。勝者はその正義を認めざるを得なく、一部を処刑しながらも、懐柔策に出ます。しかし、すでに奔流された川の流れは震災で発生した津波の如く抑えようがない勢いであり、そこに対抗措置が生まれ、結果的に数十人規模の虐殺と呼べるほどの処刑が行わる訳です。これは若松民政局内部で行われ、国事犯とは分離されたため、「見せしめ」を確実に実行することにより、強制的に罰則を印象付けることに成功します。

 しかし、なかには本当に処刑にたる人物もいたか、という疑問も発生します。贋金といっても、「製造」、「幇助」、「使用」と3つの罪が存在します。「使用」しなくとも、家にあった金がたまたま贋札だということで咎められる人物もおり、命を奪われなくとも拘禁された無辜の人たちを生んだ部分もあったと思われます。

 こうしたレジスタンスたちの正義から始まり、便乗により悪化し、その征圧による殺戮で結末を見るという会津の戦後は丁寧に扱わなければどの側からも誤解を受ける可能性があります。

 なので、そうした歴史を丁寧に少ない脳みそに叩き込み、噛み砕くように説明して歴史を伝える必要があると考えます。

 それが山本八重が見た会津の戦後でもあり、八重一家が会津を離れる結果にも結びつくからと考えるからです。

 当然、私が運良く単著を出せたとしても、たぶん世の歴史のなかからは亜流扱いされることでしょう。しかし、読んだ読者の1%でも共感していただけたなら、それはそれで「一握の砂」の私が伝えることに成功したことになるでしょう。

 一握の砂……。この砂粒が維新史の歴史に僅かながらでも波紋を呼べればと考えながら、白髪を増やして頑張りたいと思います。

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