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「慶応四年新撰組近藤勇始末」、「慶応四年新撰組隊士伝」著者、あさくらゆうが書いているブログです。 *なお、画像の無断使用、本来の意図と関係ない部分をツギハギして論争に使用することを固くお断り申し上げます。
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20日~続き
13:02、我孫子駅着。ちょうどよいバスがないので歩きます。途中、睡魔、というか疲労のためコンビニで眠気除けドリンクをチャージ。一瞬楽になりました(笑)

13:25、本当に徒歩20分かかりました。アップダウンがあって、国道6号も地獄道でした(汗)でも委託なので仕方ないです。また柏で借りても駅から歩くので大変です。

 さて、ひさびさのレンタカーです。国道6号を走りますが、平日なのd空いています。茨城県に入るとカップヌードルがついた日清食品の工場があります。そこから龍ヶ崎方面へと進みます。

 途中、連絡が。和歌山市からで、残念ながら「狸紺屋」伝説は見つからなかったとの由。まぁ、場所が特定されているのでヨシとしましょう。

14:00、あまりの疲労にコンビニで休憩。もう1回眠気除けドリンクを購入とともに、煙草を。基本的に禁煙なのですが、自動車を運転するときと飲酒するときは吸います。いまは酒はドクターストップですので、運転のときだけです。440円也。輸入品ですのでたばこ産業の規制には引っかからず。

15:05、タバコパワーでこのまま一気に稲敷市郷土資料館へ。館長と久々に邂逅し、話もチラホラ。なんでも今年、大学生の方も嘉永の「天王橋の仇討」について調査されたとか。やはり「半七捕物帳」もご存知だったようです。

 では、いくつか実地見分です。


 まずは稲妻雷五郎の碑です。第七代横綱、稲妻雷五郎を称えるために大正時代に建立されました。ここの裏面に根本金太郎の名前があります。千葉家に養子入りしている時代は「千葉東一郎」。郷土資料館に養子一札が残っています。しかし、この碑面を見る限り、千葉周作に習ったことになっています。金太郎さんの存命のころでしょうが、本人が碑面を確認したかは微妙です。


 次に天王橋事件の仇討ちのきっかけとなった兄幸七こと、仁兵衛の墓所に参りました。郷土史家が書いた村の歴史に関するコラムがり、それがヒントになりましたので見つけることが出来ました。弘化年間に死去した日付も一致します。やはり当時村では急死したとの伝承があったそうです。その際、次の名主を継いだのが與右衛門で、この與右衛門のために仁兵衛は死んだとされたのでしょう。なので養子入りした與市の言による仁兵衛生存説はこの時点で成立していません。


 そして養泉寺に参りまして與右衛門家の墓所に到達できました。被害を受けた與右衛門夫婦の墓所が単独で存在します。3回忌を契機にして建立されております。ちなみに写っているお方は館長でダンディズムな方です。元は我が地元荒川区におり、そして我が母校で教鞭を執っていたことも判明。お恥ずかしい限りです。地元話で盛り上がりました。

 これらから、天王橋(正確には浅草天王町の鳥越橋附近)の仇討ちは事実であったという確証と、仇討ちした側の証言に有利な展開が推測できました。残念なのは、たか、及びその婚家先の墓を確認できなかったことです。たかはたぶん牢死したと言いますから、小塚原に埋葬された可能性があります。

閑話休題、

 この後、資料館へ戻り、少し休憩の後、同所を出発。返却先を成田としたので一路成田へ。厳重な検問を経て成田営業所の到着は19:10。ここから送迎していただき、成田スカイアクセスに乗車したのが19:39、高砂、関屋で乗り換えて北千住へ着いたのが20:50。ひさびさにマルイにある中村屋のインドカリーを堪能後、帰宅。

 その後のことは覚えておりませんが、すぐに就寝したことでしょう(汗)

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