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17日
10:00、起床。少しお腹の調子が悪い。
さっそく国立公文書館のアーカイヴで小森沢長政の履歴書を探すが該当はなし。残念。それでも明治5年以降、東京にいたことは間違いなさそうなので川崎尚之助の接点は探れる可能性はあり。
午前中に香住の川崎家ご子孫に手紙を送るべくデータを出力…どうもプリンターの様子がおかしい。画像がコンマ単位にズレるので3D状態に。仕方なくモノクロで出力すると1色なので安心と思ったら、どうもスレが入っている(汗)仕方ないのでクリーニングを入念に行いますが、ようやく満足の域に達したのが昼過ぎでOUT。少し休憩。
また電話で川崎家のご子孫へ連絡。ご好意が叶って後日お会いできることに。助かります。
で、再度もう1枚+αで出力してたら途中でトナー切れ(泣)なんとか頑張ってもらい、なんとか出力は成功しました(汗)
このあたりで脳が疲れたらしく横臥。少しして「相棒」の再放送を鑑賞。まだ最終回直前の回を観てないので観たいのですが、暇がありません。
夕方、先日入手した「新島研究」を読む。有用な内容が多いのですが、参考文献で未見のものがあったのですが、横文字なのに少し不安が…。またドノくらい信用してよいのか悩むものもチラホラありました。
夜になり、昨日撮影したデータをパソコンへ入れます。80%は対処できると踏み、これで約30分以上かかります。結果的に145枚もありました。90分以内にこれだけ撮っているのは驚きです。それと手ブレ機能があるので失敗は皆無に近い状態です。もちろん撮りたかったのはもっとあります。
いま気になっているのは山本覚馬の関与がどこにあるかなのですが、少し気になる人物もいます。通説と違う様相を私の思考では巡らしているのでもう少し間接的な証拠が欲しいものです。
21:00、会津の贋金問題を研究する。明治2~4年で約1,250名以上の逮捕者が出ており、百名近く死刑囚が生まれ、ほとんどが現地で処刑されています。さすがに梟首は少なかったようです。明治4年から絞首刑も増え、明治8~9年までいたちごっこが続いています。
要は戊辰戦時に会津藩で贋金&贋札製造所があり、敗戦後、その版が流出した訳です。それを再度コピーしたりして、蔓延したというのが実情です。なかには会津に残された婦女子たちの糊口を凌ぐ資金にも使われたそうですが、明治3年以降になると、藩士たちは斗南へ移住しますので、その置き土産として贋札の版が残されたようです。それらが一般庶民の手で製造され、明治4年の大量処刑によって減少していきます。
福岡藩と違い、製造犯が藩士のアンダーグラウンドでの謂わば「自爆テロ」から庶民の困窮凌ぎ他に変化するため、直接犯が藩首脳ではないため、斗南藩自体に責任が追求されておりません。まぁ、斗南はこの後、外国商人と各地でトラブルを起こして余波がのちの明治政府に及ぶのですが、それは後の話です。
こんな記述を読みながら、0:30に閲覧終了。本格的にはトナーを入手してからになります。
1:30、就寝。
よろしければクリックご御力お願いします
10:00、起床。少しお腹の調子が悪い。
さっそく国立公文書館のアーカイヴで小森沢長政の履歴書を探すが該当はなし。残念。それでも明治5年以降、東京にいたことは間違いなさそうなので川崎尚之助の接点は探れる可能性はあり。
午前中に香住の川崎家ご子孫に手紙を送るべくデータを出力…どうもプリンターの様子がおかしい。画像がコンマ単位にズレるので3D状態に。仕方なくモノクロで出力すると1色なので安心と思ったら、どうもスレが入っている(汗)仕方ないのでクリーニングを入念に行いますが、ようやく満足の域に達したのが昼過ぎでOUT。少し休憩。
また電話で川崎家のご子孫へ連絡。ご好意が叶って後日お会いできることに。助かります。
で、再度もう1枚+αで出力してたら途中でトナー切れ(泣)なんとか頑張ってもらい、なんとか出力は成功しました(汗)
このあたりで脳が疲れたらしく横臥。少しして「相棒」の再放送を鑑賞。まだ最終回直前の回を観てないので観たいのですが、暇がありません。
夕方、先日入手した「新島研究」を読む。有用な内容が多いのですが、参考文献で未見のものがあったのですが、横文字なのに少し不安が…。またドノくらい信用してよいのか悩むものもチラホラありました。
夜になり、昨日撮影したデータをパソコンへ入れます。80%は対処できると踏み、これで約30分以上かかります。結果的に145枚もありました。90分以内にこれだけ撮っているのは驚きです。それと手ブレ機能があるので失敗は皆無に近い状態です。もちろん撮りたかったのはもっとあります。
いま気になっているのは山本覚馬の関与がどこにあるかなのですが、少し気になる人物もいます。通説と違う様相を私の思考では巡らしているのでもう少し間接的な証拠が欲しいものです。
21:00、会津の贋金問題を研究する。明治2~4年で約1,250名以上の逮捕者が出ており、百名近く死刑囚が生まれ、ほとんどが現地で処刑されています。さすがに梟首は少なかったようです。明治4年から絞首刑も増え、明治8~9年までいたちごっこが続いています。
要は戊辰戦時に会津藩で贋金&贋札製造所があり、敗戦後、その版が流出した訳です。それを再度コピーしたりして、蔓延したというのが実情です。なかには会津に残された婦女子たちの糊口を凌ぐ資金にも使われたそうですが、明治3年以降になると、藩士たちは斗南へ移住しますので、その置き土産として贋札の版が残されたようです。それらが一般庶民の手で製造され、明治4年の大量処刑によって減少していきます。
福岡藩と違い、製造犯が藩士のアンダーグラウンドでの謂わば「自爆テロ」から庶民の困窮凌ぎ他に変化するため、直接犯が藩首脳ではないため、斗南藩自体に責任が追求されておりません。まぁ、斗南はこの後、外国商人と各地でトラブルを起こして余波がのちの明治政府に及ぶのですが、それは後の話です。
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