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「慶応四年新撰組近藤勇始末」、「慶応四年新撰組隊士伝」著者、あさくらゆうが書いているブログです。 *なお、画像の無断使用、本来の意図と関係ない部分をツギハギして論争に使用することを固くお断り申し上げます。
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28日
11:00起床。かなりやばい。咽喉、咳、熱の三拍子で身体中が痛い。さっそくMさんからいただいた風邪予防薬を飲む。食後はパブロンで身体は戦争中。当然気分は悪いけれど、少しは動ける。外出するからお風呂には入るけど、頭は洗えない(汗)

15:00、自宅を出発。いくつか寄るところもあり、尾久駅に15:30到着。電車に乗ろうとしたら高崎線が不通!次の宇都宮線に乗車します。

15:55、浦和駅に到着。電車で書いた年賀ハガキを投函後、1日に数本という浦14という、県立文書館の正面で降ろしてくださるバスに乗車(ちなみに終バス)。16:00発車、16:07に到着。文書館に到着すると、時間が短縮されているという。すでにターゲットは決まってたので、申請を行い、同時進行で撮影申請と複写申請を行います。届いた時点で撮影申請と複写申請を出し、これまた急いで撮影と複写を行いました。

16:50、同館を辞去し、17:00のバスに乗車。17:13の上野行きに乗車して17:30には尾久駅に到着。ここから明治通りを疾走して薬局で「サヤカ鉄キャンデー」を購入。ココ、処方箋薬局なのですが、この製品がお気に入りで、岡山&京都弾丸旅行でかなり助けていただきました。

17:50、荒川郵便局でコピー。実は最近「5円コピー」というのがありまして、費用対効果で考えると自宅でコピーするより安いということが判明。最近よく利用しています。宣伝が薄いせいか、利用者が少ないのでたすかります。

18:20、荒川区立南千住図書館へ。南千住の千葉灸治院の場所が判明したのでその番地の確認を。この時点で身体に危険のシグナルが!!!

19:00、図書館を辞去後、どこかに寄ったようですが忘却の彼方です。とにかく自宅に着きました。

 その後、熱でボケボケながら眠ることも出来ずに「JIN」を鑑賞。終了後、とにかく横臥しないと、ということで横臥しました。

29日
2:00、メールで起きる。結局眠れず、本当に意識がなくなったのは6:00。11:00起床。昨日との症状が少し違う。身体の上部より腹部にダメージが。それでもお風呂には入れて、大事を取って安静にして、ようやく14:00に出発。いくつか用事をこなし、日暮里駅から新橋駅へ。新橋駅からゆりかもめなんですが、乗り換え時間がかかり過ぎる…健康なら走るのですが、上りですので無理…。そしてなんと、1本乗り過ごし、15:12に乗車。なんかこの路線。やけにグルグル回ります。なぜか怒りとめまいが起きてきます。ようやく着いたのが15:30?駅からダッシュして、なんとなく場所は学習してましたので最短距離(つまり斜めに突っ切る)でズンズン進み、回りは魑魅魍魎の世界でしたが、トランクが邪魔、元気なら八双飛びなのですが、それも叶わず、2段蹴りで道を作り、ズンズン進みます。なぜなのか、東京ビッグサイトに来たこと自体はじめてなのに、やけに進軍コースにブレはありません。エスカレーターを駆け下り(歩くなと言われたので駈けたら起こられなかった)、ブースに入る。ここで「も、よ、れ、ら」の文字が、目的は「の」、一番近い文字へ向かうとは行が!次の瞬間、「ぺ、ぴ、ぽ、ぱ」!!!ナメテんのか(怒)こういうことを言ったら人間性を疑われてしまいますが、この行軍中、魑魅魍魎が目に入るたびに「殴りたい!」という衝動に駆られてしまいました。病気の為せる業なのでしょう。

15:40、ようやく目的のブースに到着。すでに撤退済み。残り香さえありません。係員に撤退者は撤退挨拶を済まして帰るのかどうかを聞いてみましたが、係員は知ってて当然、というような雰囲気でした。

 基本的に係員は同類の方か、あるいは入場者を「敵」と看做しているかに二分されます。会場にいても仕方がないのと、絵画的に頭がバーストしそうだったのでエスカレーターで上に登りましたが、そのさなかに拍手が!どうやら16:00でこの「コミケ」なるものが終了するため、合図の拍手だったようです。

 とにかく疲れたので1本赤玉広場で喫煙後、まずはゆりかもめ方面へ、ゾンビが群がるが如くの絵図に恐怖を感じ船の方へ!さきほど出船したようなので客はあまりいません。しかし、道路の向こうにあるバス乗り場も思ったほどの混み様ではなかったので、並んでみると、なんと浜松町へ直行バスが!これはよいと、乗車すると、たった12分で浜松町駅へ!

 こんな感じで帰りにツタヤへ寄った後、帰宅。そのまま横臥。なにかしようとあがくも、頭が回転せず、仕方がなく23:00に睡眠導入剤×2でターボかけて、0:30には睡眠しておりました。

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今週は連休があるので、いくつかやれることができて、本当に嬉しい限りです。
 本当は最初、京都に行く計画を建てていたのですが、直前になって、16日午前中と、17日夕方に予定が入ってしまい、今回は断念。親しくさせていただいている京都新選組同好会のパレードは一度拝見してみたいと思っておりましたが、来年に順延することとなりました。
 それで午前中の用事を済ませると、ついTVを見たのが運のツキ、この前見損ないました「戦国自衛隊」がやってることで、ついつい観てしまいました。観ている作業の合間に官軍の公式記録である「山道軍記」の活字化作業を行いました。
 どうも新選組や旧幕府軍ばかりが特化されていて、官軍の記録が重要視されていないような気もしたので、おかげでイメージがどんどん膨らんでまいりました。
 記録というのは一方ばかりを見ていると、傍観がいつのまにか主観に変わり、その人の思い入れまでもが真実と思えてきます。しかし、歴史の事実を傍観者の立場で書くにはどうしても、官軍の記録と対峙させなければ本当の事実はみえないかと思います。
 特に新選組研究について、研究家と称した各作家が「思い入れ」で書いていることが多いので、いったん活字化したものでも、信用せず、原本で当たっております。そのおかげで面白い出来事もちらほらと発見できることがあります。
 その後、前、後編があまりにも長いのと、「山道軍記」の活字化が終了したのを受けて、小島資料館に出かけました。私の近所から電車は「乗り換えなし」というのが助かります。
 16:15ころ、到着しましたが、訪問者は1名。このあたりにブームの終焉がうかがえます。その後、1名が入れ替わりのように入って閉館ですが、その間、今年刊行予定の「幕末史研究」についてお互い意見を交換いたしました。どうやら今回は「慶応4年特集」となりそうです。
 特に清水隆さんや、新しく寄稿してくださった方等、ボリュームはかなりあり、新選組研究者、およびマニアには期待のものと思えます。
 そして、19:00、地元の駅に着いて、ひさびさにクッパがいただきたかったので、牛角ダイニング(ひとりでも入れる牛角というようなところ)で食事をして、帰宅。そのまま寝てしまいました。
 そして今日は官軍記の活字化作業を行いました。これが苦戦しています。
 みなさまが目にしている「官軍記」なるものは、実は「揖斐川町史史料編」に活字化されたものだということはご存知でしょうか。
 最近では「続新選組史料集」と「新撰組五兵衛新田始末」にその掲載を見つけることができます。
 これらのうち、「五兵衛~」は4月1日の分については下記①から引用されています。4月2日以降は、「活字化版」(続~は活字化版のみ)です。
 実は官軍記はいくつものパターンで構成されており、
1、原本(3冊構成~市田靖氏蔵)

2、写本(活字化のもと~市田靖氏蔵)

3、活字化版(揖斐川町史史料編)
とがあります。
 1はリアルタイムといえる内容で、その状況には信憑性が高い。またこの原本が改写された際、本来の意味と違った内容となった部分もあり、非常に重要です。
 2は大正期以降、改写されたもので、楷書化したものです。ただし全部の改写はされず、途中で終っております。なお、活字化版にされなかった記述もあり、これもまた貴重な内容です。
 3は改写版をまた読みやすくするために、一部修正が施されています。しかし、一部の記述では、意味が変わってしまったものもあり、単なる参考文献とすれば、問題はありませんが、引用には危険をともないます。
 一応、わかりやすい参考例として、1箇所に傍線を入れてみました。現在、もし手元にお持ちの官軍記活字化版があれば確認していただければと思います。
 これは祖式金八郎と書いてあります。1,2ともに祖式金八郎となっております。
 しかし、3では弐釜八郎とされ、"ママ"と注釈が付いています。
 2の単なるインクミスが訳し間違えられ、「金」が「釜」になった訳です。
 基本的に思うのですが、「五兵衛~」は特に注釈がなく、不親切に思えるようですが、逆に読者に勘違いさせないという効果があります。逆に「続~」では注釈が入ることによって、とんでもないことが書かれることになります。「五兵衛~」の作家さまには「官軍記」の原本写真は見せたことはありますが、「続~」はありません。原本の確認を取った形跡が窺えないのでかなり危険だということになるでしょう。
 以前、ほかのブログにも書きましたが、こういう危険な史料集?が出回ると、史実が変わる可能性がありますのでどうか御気をつけください。
 と、いうことで、けっこう史料編が進んでまいりました。
 これからもなんとか頑張りたいとおもいます。
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日曜に長倉さまとお会いした関係で、少しだけ長倉家について手を出してみました。
 すると、明治期の長倉家についてわかったことがいくつかあります。
住居
明治4年:浅草新寺町
明治6年:同上
明治8年:浅草梅園院地中内
明治9年:向柳原町1丁目14番地
明治14年:同上
でした。
 永倉新八の父の兄~つまり長倉家本家当主、嘉平治の跡を継いだ養子の嘉一郎は苦難の道を歩んだようです。
 今回の史料はすべて公文書に基づいておりますが、それらを見ても永倉新八だけでなく、旧松前藩士ら数人の身元保証なんかもしていたりしておりました。
 ついに長男正が生まれ、家禄奉還し、還禄地所を受ける最中、急死したのではないか、と思えるほど早い死を迎えています。
 この後の長倉家の労苦が偲ばれます。
 新八の実父勘治(甚治)は森家に入り、森蔵吉となり、神田錦町に住んだようです。長倉さんの聞いた話によりますと、子孫は絶えたようです。
 こんな調べ物をしていましたら、近いうちに「史跡めぐり」を企画したくなりました。
「永倉新八生家&斉藤一生家の旅」
を企画できるようなら、いずれUPしたいと思います。
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