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「慶応四年新撰組近藤勇始末」、「慶応四年新撰組隊士伝」著者、あさくらゆうが書いているブログです。 *なお、画像の無断使用、本来の意図と関係ない部分をツギハギして論争に使用することを固くお断り申し上げます。
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5日
7:00、起床。少々身体が不自由。昨日の後遺症か?

8:00、朝食。少々軽めに。値段が安い割りには牛乳もあり満足です。ここはバイキング形式でした。

8:56、部屋を出る。8:57、チェックアウト。駅の近くなのですが少し急ぎ足で駅へ。

9:02、酒田駅発。本当にギリギリ、10秒もなかったような…(汗)これを逃すと大変なことになります。やれやれ。途中の余目で知人の編集長と遭遇。清川駅をともに降ります。今年は寒波が引かず、いつも満開か散り気味のホーム上にある桜が蕾です。今年の豪雪でけっこう柵なんかが各所で被害を受けています。地震の影響でなかったことに安堵いたしました。

 少し駅を歩きますと、例大祭参加の方々が。お言葉に甘えて神社まで搭乗させていただきました。


 車で3分、神社に到着です。久々の方々に挨拶の後、荷物を記念館に預け、神社内へと入ります。


10:00、定刻通り、式典が催されました。疲労でしょう。玉串奉納を間違えました(汗)

11:00ころ、直会となり、さまざまな方とお話いたしました。ただ、体調が思わしくなかったので大したことも出来ず、注力はスピーチに捧げました。今回の震災と安政地震と掛けて清河八郎の不屈の信念をお話したと思います。

13:00ころ、今回、大川周明のご子孫、大川賢明さんと多く話すことが出来ました。けっこう無礼なお話をいたしましたがお許しください。実は東京裁判の一件について私見を述べました。もちろん調査した訳ではなく、私の想いです。東京裁判で大川を狂人にする必要があったのではないか、ということです。狂人にすることにより亜細亜政策、過去の欧米による植民地化の過酷な弾圧、日本によるインドとの共闘関係、奴隷解放といった日本側に有利となる材料を大川は情報を持ちえていました。それを封殺することによって支配者である連合国のシナリオ通りに進めたのではないかというものです。第一「脳梅毒」という梅毒という病名に不信感を持っています。発狂した原因が他に起因するのなら解りますが、サルバルサンを用いずに治した、そしてのちの治療を行ったかも不明なのに驚きを覚えています。

14:00、今回は大川周明顕彰会の方々の好意に甘えて酒田の町の案内をしていただきました。まず、土門拳記念館では写真展が開かれており、有名人写真がいくつも展示されておりました。驚いたのはザ・ドリフターズの写真も土門さんの作品だということです。昭和43年とありましたから、ブレイク寸前のもので、一生懸命売り出す直前ということでしょう。イメージとして芸術作品の撮影というイメージでしたから意外でした。でも、こういうことを言うとドリフに失礼ですね(汗)失礼いたしました。

 次に茶室の案内と、最後に日和山公園を案内いただきました。この公園から見える日本海の景色で心が洗われました。直近に見た海は被災した宮古でしたから、穏やかな海に精神的に気分が良くなりました。


 ただ、体調的には左肩の激痛から来る頭痛が取れなかったのが最悪でしたが、なんとかジャンキーとなって防禦。その後、お店でご馳走になり、わざわざ酒田駅で寝台列車の時間までお世話いただくことに。本当に感謝の念に堪えません。心より感謝申し上げます。

 で、22:55には酒田駅に入り、顕彰会のOさんとお別れし、ホームで寝台列車「あけぼの」を待ちます。同列車は定刻通り入線。実はこの時まで予約した切符が上段ということを知らなかったのです(汗)で、指定の場所へ行きますと、下段で鼾の音が(汗)列車の振動に負けていないものですから、車掌さんに場所替えをお願いしたところ、しばらくして案内いただけました。その車掌さん、多くの荷物を持っていることを知ってわざわざ荷物の一部をお持ちいただきとても助かりました。とても爽やかな方で、この列車はこういう乗務員の方々に支えられているのだと思いました。そういえば秋に乗車したときの車掌さんも良い方でした。それがこの列車の乗車率を上げている要因なのかも知れません。本来なら廃止対象列車ですから。

 で、案内していただいたのは車端の方で、鼾関係は問題なし。扉の向こうには更衣室もあり、扉3枚隔てたトイレでは清潔感を保つために洋式でビニールカバーがあり、芳香剤までありました。こういうソフト面の改良は助かります。

 こうして村上以降ですぐに睡眠に入り、一路上野へと列車は走って参りました。


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2日
 帰宅後、3時間ほど睡眠。バタバタしてて、夕方に買い物がてら「うな万」で食事。

3日
 昼前に起床。なにかとバタバタ。夕方前、流山の北総新選組メンバーへ差し入れ。宮古の鉄道破壊状況を伝えました。メンバーの子が作った手作りクッキーが美味しい。最後は地域限定の人気キャラ「ザビエルくん」で盛り上がり、同所を後に。帰宅は22:30ころ。その後、庄内行きの荷物を確認。寝たのは1:30。

6日
 8:00前には帰宅。再度睡眠、11:00起床。ただ、この日はなにもしていないような気がします。記憶がありません。覚えているのは病院2軒行ったことと、TVで「棄霊島」を観たくらいです。浅見光彦シリーズです。主役の中村俊介さんは渡哲也の「新選組血風録」では沖田総司を演じた方です。前半ではかなり期待させてくれます。

7日
7:00起床…でも立てない(汗)息苦しい。気管支が痛い。少々のたうってなんとか8:30にはお風呂に。朝食を摂り、薬を飲み、ようやく動けたのが9:30ころ。しばらくして家を出るも、携帯電話を忘れて再度帰宅。肺病は体力を奪われます。再度家を出るときフラフラでしたが、そこに1台のタクシーが通り、それに乗車。値段は高いけど地下鉄町屋から小川町を経由して京王線に入るルートを。到着は11:30ほど。なにかやっているらしいのですが、よく解りません。主催者の峯岸さんに挨拶の後、チャリティーに寄贈する「新選組を歩く」を5冊渡しました。これで私の使命も終わり、安堵いたしました。おかげさまで同書は15:00の時点で完売したようです。ありがとうございます。この売上は日野の方が間違いなく宮古へ届けてくれます。

 ここで久々に市谷柳町試衛館のメンバーと会い雑談。最後の方で解ったのですが、この時間は横田淳さんをお呼びしての講演だったとか?何言ってるのかハキハキした感じがなかったため、言語として不明でした。最後に「品川」という言葉のみ聞こえ、1分も経たないで終了。もちろん体調不良のため、集中して聞こえなかったこともありますから、内容はご本人にお聞きください。


 その後、トークなのですが、どちらかというと被災地の宮古の現状を訴えるというものでした。これはこれでよかったと思います。個人的には伊藤さんだけのお話があってもよかったようにも思えます。現地の生の声は貴重だからです。

 で、こんな体調だったものだから、本能的に感じたことのみ…

○あ、この人コスプレ変えた……
○あ、この人ずいぶん態度でかくなった……
○あ、この人はいつも腰が低い方だ…
○あ、この人…思い出せない…
○あ、この人、遠路はるばる来たんだ…
○あ、この人、頭の毛が増えてる…

 疲労のため、たいした理解はせずに時間は流れ、でも、なんとか時間の帳尻は合わせてありました。日野新選組同好会の努力の結晶でしょう。

 帰りに見かけた関係者に挨拶後、同所を辞去。帰りに福島県産のコシアブラを購入しました。明日は天ぷらにします。隣にコゴミが販売されてたのですが、どうも山形のとは様相が違うので、食べ馴れている方を。

 ともかく満身疲労という状態でしたから、帰宅するまでは大変でした(汗)

 帰宅後、自宅で伏せっていると、面白いメールに大爆笑!!!これで起床し、昨日の続き「棄霊島」を観る。前半では絶対に犯人特定は無理な結末でした。なぜかお兄さんが大活躍しています。この榎木孝明さんは市川昆映画で浅見光彦を演じた方です。横溝映画の出演者による内容でしたが、原作の内容がミスのような気がしました。横溝ばりにならないとあのキャストが生きない…。でも役をバトンタッチしています。薔薇の香りも。

 それと、本日さっそく庄内の方より大川周明の本が届く。第1章と東京裁判の章のみ読みましたが面白い!こんど機会があったら同人の墓所に詣でたいと思います。


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4日
6:00、起床。まだ疲労が残っているのと、昨夜寝たのが1:00だったのが堪えました(汗)

6:40、家を出発。少ししてタクシーを見つけて乗車。6:52、JR三河島駅到着。6:56、常磐線で上野駅へ。7:02着。

 ここから新幹線ホームに入りますが、地下深いため、ホームに到達するのが大変です。ようやくホームに到達できたのが7:09!!、12号車まで行き着くことが出来ず、7:10、5号車に乗車して大宮で乗換え。MAXでしたので売店でかつサンドを購入。食堂車の味を復刻だとか…。

 少しして大宮駅に到着。走ることは出来ません。それでもなんとか11号車に乗車し、なんとかセーフ。12号車の指定席へと移ります。

 今回は震災の影響なのでしょうか?指定席は約50%の乗車率でした。朝食もいただいていないのでかつサンドにしようかと思ったら、名物駅弁があるとか…。届くのは米沢らしいですが、睡魔もあって、それまで待つことに。


 米沢手前で目が覚め、駅弁が届きます。


 味はまぁまぁといったところですが、本来は白玉に桜餡がかかっているはずがありませんでした。手を抜いたことはここにしっかり書かせていただきます。

 そんなこんなで、新幹線は10:58、新庄駅に到着。11:13発の陸羽西線に乗車します。やはり震災の影響で乗車率は若干減っています。

 ちなみにこれはJRでの状況です。実は山形新幹線のGWにおける切符予約は4月26日からでしたので、JRをあきらめて自動車の方が増えたのでしょう。民主党は今回のGWは通しで休日1000円にしましたから道路はどこも大渋滞です。

 で、11:13、陸羽西線で清川へ。


 記念館に寄る前に歓喜寺の斎藤家墓所を詣でました。清河八郎とその女お蓮の墓所もございます。


 そして斎藤家墓所の右手に入ると庄内戦争で戦死した清川村の農兵の墓所があります。こちらにもお参りを。

 で、12:30ころ、清河八郎記念館へ。館長と会計の方へ久々に旧交を温め、今回お願いして千葉家の免許関係を閲覧させていただきました。

 やはり「千葉の名灸」を書くうえで、千葉周作、および栄次郎の免状を見たかったのですが、栄次郎のはやはり道三郎との連名でした。これは貴重です。周作没後の玄武館の事情が汲み取れます。

 で、そんなこんなしてましたら、13:40の汽車を逃してしまいました(汗)そしたらなんと記念館の方が鶴岡まで送迎していただきました。もう感謝の念に堪えません。本当に心を込めて感謝を述べて、鶴岡市郷土資料館まで送っていただきました。

 資料館に着いたのは15:20くらいです。ここで新徴組関連の史料を調査です。ここでいつも秋保さまにお世話になっております。各種史料を出していただき、それを撮影。

 そしてら新徴組隊士のひとりが鈴木万次郎の筆頭公用人梅沢儀兵衛の親戚でした!斎藤一と関連します。こういうことってあるのですね。

 で、気づけば17:00、閉館です。そそくさと同館を辞去し、17:26発の鶴岡駅行きのバスに乗車します。鶴岡には17:40ころ到着。

 ここで以前、酒田で食事バトルロワイアルを経験していましたので今回は鶴岡で食事。10年ぶりに麦切りをいただきました。山菜の天ぷらも添えました。やはり美味しいですね。少し冷えたので蕎麦湯を貰い温まりました。

 そして1Fの清川屋で買い物。1100円の牛肉カレーなんかを買ってしまいました(汗)美味しくなかったら社長に文句言ってやる(笑・知り合いです)それと2Fでいただいた麦切りやらを購入。意外に時間がかかり、18:40くらいに鶴岡駅へ。

18:55、鶴岡を出発。古い汽車はロングシートで新しい汽車はクロスシートでした。普通は逆なのですが、クロスシートの方を選択。4日ですが学生が多かったです。

19:38、酒田到着。そのままホテルにチェックインし、マッサージを呼んで身体をほぐし、23:00には就寝。


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1日
7:00、起床。

9:35、宮古へバスを。車中、岩手県庁に自衛隊が後方待機している姿を見ます。行きの車中は深夜でしたので周囲が解りませんでしたが、高原だったり渓谷美やらが堪能できました。本当なら道路より線路の方がスキップしてスピードが出そうなのですが、本数が少ないので利用したくても出来ません。

11:45、宮古駅に到着。この宮古で唯一見たかった史跡があったので宮古観光協会へ詳細な場所を確認するために訪問。すると昨日のY事務局長がおられました。お話すると、わざわざ時間を割いて案内をいただきました。

それはココです。


 藤原観音堂です。宮古の戊辰史跡のなかで唯一高台にない地域の史跡です。明治2年に旧幕軍の首なしの遺体がこの浜に打ち上げられて、それを気の毒に思った藤原の村人たちは丁重に埋葬し、翌年には現在の墓碑を建立しています。


 そして昭和に入ってライオンズクラブの方々が基金を募って説明の石碑を建立しています。残念ながらこの石碑が今回の津波で前傾しています。復興が終了すれば再度土台を固めて復旧することでしょう。


 これが本体です。小振りですが藤原の方々の想いがこの墓石を守ったのでしょう。無傷でした。毎年藤原の方々の手で供養されております。

 なんでも、この宮古のこの墓石が流失したと勘違いして、最近発刊された「新選組を歩く」の出版社へクレームをつけた御仁がいるとか。地元の情報も耳にしないでデマを流すのはいかがとは思います。なかには誤解された方もおりましたが、普通はそこまでで、出版社にまでクレームをつけるのは異常としか言いようがありません。今回のように誤報だった場合、この御仁は出版社に陳謝するのか?まずしないでしょうね。実はMIXIのつぶやきで少し書いたのですが(それも匿名で)、なぜかその御仁に伝わったようで、その後に変な記事が掲載されておりました。もちろん犯人探しをするつもりはありませんが。

 事実と違うと言うなら1次史料とそれを補う傍証がなければそう簡単に覆るものではありません。それができないなら単なるクレーマーでしかありません。ともあれ、怪しい情報にはじゅうぶんにご注意を。

 この案内をしていただきました観光協会のYさんには本当に感謝申し上げます。途中、この沿線を走っていた釜石線の磯鶏~宮古の惨状も見分しました。まず、線路が転がっているが、どこに本来の線路があったのかまったく解りません。路盤はしっかり流されており、その周辺は住宅とともに完全なフラットになっています。一応手前に堤防があったのですが、津波はそれさえも乗り越えたのでしょう。この日も津波の脅威を知ることになりました。帰りがけに閑伊川を見ましたが、釜石線の鉄橋だけ流失してました。たぶん復旧は年内ということですが、相当な困難があることでしょう。この日も津波の脅威を心に刻まれることになりました。幸いだったのはYさんの自宅は高台で無事だったことです。ただし実家は流失しておりますので実家の方と同居生活だそうです。

閑話休題、

13:00、偶然、チーム誠を合流しまして、宮古海戦の会の伊藤さんともお会いできました。そこで一緒に食事をしまして、一行はこの後、伊藤さんとともに史跡めぐりを。私はすでに拝見しておりますので駅で待機を。

 でも駅を見回していると、いろいろなものが目に見えてきます。駅は運良く被災しなかったおかげで唯一のインフラとなっています。土産物をいくつか購入してまったりと。

15:00、チーム誠と合流して一路南へ。渋滞はなかったのですが、本来かなりの遠距離なもので、郡山へ到着したのは23:05。各種チーム誠にはお世話になりました。この場で感謝申し上げます。

 この時間ですのでJRはありません。ネットカフェでも探そうかと思いましたが、「ドリーム福島」があることを確認。なぜか高速バスネットで検索できなかったのですが、これに運良く乗車。23:50発に乗車し、5:00、東京駅着。無事に帰宅いたしました。


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 ボランティアの後、宮古観光協会へ。日野、会津、そして微量ながら私も支援物資をお届けいたしました。観光協会の方々は私たちを暖かく出迎えていただき、この宮古の現状をお伝えいただくために現地視察に同行いたしました。

*の区域は立入禁止区域です。


 宮古市内。国旗がなにかを訴えています。


 宮古市内。本来は浄土ケ浜の観光船が陸に打ち上げられています。


 *浄土ケ浜。道路はアスファルトの下部が抉れて大変危険な状態です。当然立入り禁止区域です。なお、小島の木々もいくつもがなぎ倒され、はげ山になっています。


 *田老地区唯一のホテル。3階まで被災しているように見えますが4階まで被災しています。


 *当地域自慢の防潮堤の跡。水門のみが残り、跡形もありません。


 *壁面。歩道の柵の曲がり具合でいかに高い位置まで津波が襲撃したかを物語っています。

 これは嫌われるのを承知で申しますが、私たちは観光協会のご好意でこの被災地の姿を拝見しております。個人的興味で行くことは大変危険です。特に浄土ケ浜や田老地区は道路が寸断し、一部地域ではまだ遺体の捜索範囲に入っております。ですので未だガレキではあって倒壊の危険があり、二次被災する可能性がじゅうぶんにあります。ですので、くれぐれも物見遊山には行かれないことをお願い申し上げます。見物人のために機動隊、自衛隊は本来の活動ができなくなります。


 被災地を終えて、私のみチームから離れて盛岡に宿泊しました。そのとき三陸鉄道の終列車を撮影しました。ガレキのなかをこの三陸鉄道は走っています。11日の被災にも関わらず、電気を失われた同鉄道幹部は車輌を対策本部として使用し、翌日にも復旧可能な地域は全力でガレキを撤去し、なんと16日に小本まで運転を再開しています。これがどれだけ被災者の心を救ったでしょう。この三陸鉄道の根性といい、宮古観光協会の会長や事務局長の笑顔。この惨状でも挫けずに励んでいる姿に、いままで自分はずいぶん楽をしていることに悲しみを覚えました。そして一生この姿は目に焼きつくでしょう。

 きっと復興できます。宮古は不滅です。


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