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「慶応四年新撰組近藤勇始末」、「慶応四年新撰組隊士伝」著者、あさくらゆうが書いているブログです。 *なお、画像の無断使用、本来の意図と関係ない部分をツギハギして論争に使用することを固くお断り申し上げます。
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小畑家付近に生えるカラマツ

(前回のつづき)
2004年8月。この月の調査旅行はハードでした(汗)なにせ11日に函館空港に到着し、午後に霊鷲院に到着。ご住職よりお話を聞き、それから洞爺に出て、「トワイライトエクスプレス」に乗車。一路京都を目指します。
12日、京都で散策し、夜、寝台特急「なは」で熊本へ。13日、熊本では尾形俊太郎の調査に費やし、ここでようやく宮原(みやばる)の温泉旅館に1泊。14日は羽犬塚で1泊。久留米周辺の史跡を巡りました。15日は終戦の合図を旧久留米城で聞き、午後に水天宮の真木さんとお会いして資料館を見学。そして翌日に出雲入りした訳です。この行程もハードでした(汗)

 まず快速で小倉まで行きます。小倉からは寝台特急「富士」で岡山へ。この列車でないと接続に間が空いてしまうからです。いまならネットカフェでしょうが、このころはそこまで地方に普及していませんでした。

 岡山からはこの日のみ運行された「ムーンライト八重垣」に乗車。4輌編成の客車でディーゼル機関車が牽引していました。走る路線は電化されているのに不思議でしたが、まぁ、そこまで鉄道マニアではありませんので乗車して指定の席へ行きます。席の埋まり具合は30%というところでしょうか?あまりにも運行本数が少ないために乗れなかった方が多かったのでしょう。ともかく古い客車で着席したらリクライニングが古いもので、寝ようとすると動くたびにリクライニングが戻ってしまい、その度にギィギィいうのです。これはたまらないと、隣の車輌に移り、コチラはリクライニングがちゃんとしてたのでこちらで車中泊となりました。

9:30ころ、小畑さんと待ち合わせるためにJR木次線の木次駅に降りました。乗換えに1時間かかり、のんびりした旅でした。疲労はとにかくピークです。

 ここで小畑さんにお会いし、さっそく多久和のご自宅へ。ご自宅でまずは村会長同席のもと来意の本旨を告げ、そこから家の向かいにある墓所へ参りました。元にあった場所から現在の場所へ移されたそうで、墓石も新しいものが多かったように記憶しています。

 で、亀太郎の件は小畑家にいたという伝承は確かにありました。ただ、なんで霊鷲院に行ったのかまでは不明なのです。

 そして驚いたのはこの小畑家の近くに聳え立つカラマツの木でした。年輪を考えても140年はありそうでした。ちなみにこの場所には絶対に自生しない木なのです。つまり函館から持ち帰った以外にここに生えることはない訳です。

 最初も申しましたが、明治38年に没した小畑亀蔵が観光で北海道へ、それも森の霊鷲院へ行くというのも不思議な感じがします。もしかしたら亀蔵は本当は亀太郎が郷里に凱旋後、行方不明になった後、箱館戦争で戦死したことにしたのかもしれません。箱館戦争に関して戦死者はけっこう詳細に解る筈なのですが、この亀太郎のみ追善供養でしか記録がないからです。そう考えるとのちに日野の佐藤家に訪れたことと合致します。もしかすると亀太郎は最終的に森で亡くなった可能性もあるのではないでしょうか?そのために亀蔵が追善供養を行ったのかもしれません。

 どちらにしても小畑亀蔵が森町に行く動機がまったくありませんので多分に亀太郎の関係だということだけはわかります。

 ちなみに亀太郎が箱館で降伏して新政府より許され日野に来た事実も確認できています。佐藤家にはそれを証明する赦免状の写しが存在していました。

 そう考えると、亀太郎は5月に箱館で降伏し、弘前で謹慎を受けるも兵卒という立場から6月に赦免され、翌月に佐藤家を訪問し、箱館のことを伝え、横浜まで井上松五郎に送られて横浜へ出ています。その後、船路だったのか、あるいは陸路だったのかは解りませんが、郷里の多久和へ帰り、そして再度北海道に渡ったものと思われます。年子とすると年長として安政元年生まれなので16歳。青雲の志を持っていたとしても不思議ではありません。

 またこのカラマツは亀蔵が箱館へ渡る前のものと推測できるので、そうなるとカラマツの種子を持ってきたのは亀太郎しかいないという訳です。

 そう、前回紹介された「悪いことをした」というのは箱館戦争のことであり、けっして犯罪者という訳ではなかったのです。

 この一件で詫和では小畑家を見る感覚が変わりました。犯罪者の家ではなく、結果として賊軍に従軍した兵士のいた家だったからです。歴史のいたづらが小畑家を犯罪者の家と誤らせたのです。

 こうして面白い結果に終わり、その後は小畑さんのご好意でソロバンが廃れたあと、温泉ランドで持ち直した亀嵩を案内していただき、長生きする水も飲み、ちょうどこの年に「砂の器」を放映していた関係で温泉ランドにあった「砂の器コーナー」も見学いたしました。

 で、夕方に出雲市駅まで送迎していただき小畑さんと別れ、ネットカフェで時間を潰した後、行きに乗ってきた「ムーンライト八重垣」に乗車して帰路の旅に出ました。

 同年10月、三刀屋町はこの月を持って平成の大合併により雲南市となりました。最後の9月号に私が寄稿することになり、この亀太郎の話が掲載されました。この出来事は7年経った今でも忘れられない出来事です。
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砂の器記念碑の前に座る小畑定義さん

 先日「砂の器」が放送されて、思い出したことがあります。2004年に行った「亀太郎探し」です。

 ことの発端は同年4月、日野市の記者会見で「市村鉄之助は亀太郎の誤りだった」というところから始まります。鉄之助ではない亀太郎とは誰か?日野市ではバトルが展開されました。

 そのころ私は大垣市のタウン誌「西美濃わが街」の執筆で市村兄弟を手がけた関係で、その日野市の関係者と懇意の間柄にありました。なのでこの亀太郎調査に着手した訳です。

 そこに当時の三十一人会会長の林榮太郎氏より武内収太編「箱館戦争」のコピーをいただきました。そこには「霊鷲院過去帖記事摘要」に

出雲国飯石郡宅安村農 畑中亀蔵
二男 亀太郎

とあったのです。箱館戦争に従軍したうち、新選組に参加した兵卒で亀太郎は1名しかおらず、必ずしもこの亀太郎ではないとは思いましたが手懸りがない。この過去帖については後書きなので、あとで亀蔵がこの霊鷲院に事後供養していることになります。その理由もわからない。

 この亀太郎に興味が沸いて7月、いま考えれば本当に興味本位で出雲空港に行き、当時この地域を管轄する法務局で閲覧作業を行いました。

 なお、この住所について、実はすぐに浮かんだのは「砂の器」でした。

「カメダ」→「亀嵩」なら「宅安(たくあん)」→「多久和(たくわ)」ではないかと。

 そして解ったのはこの地名の記載方法は明治22年の市町村合併以前ということでした(のちに相続したのが明治14年なのでそれ以降ということが判明する)。

 法務局で粘ること5時間。5000番台までの土地台帳を閲覧し、多久和地域のみ閲覧いたしました。

 すると「亀蔵」の名前を有するのは1軒のみ。それが小畑亀蔵でした。

 残念ながらこの時点でもう15:00を過ぎていましたのでこれ以上の調査は出来ず、急いで空港へ。そのまま東京へ帰り、その日は仕事をこなして朝帰りでした。

 だけどこの日はめちゃくちゃ暑かった。買ったチェリーコークは不味く、ペプシのキューカンバーの方がマシと、そんな思い出が今も残っています。

 それでも土地台帳の公図の取得は大きかったといえます。こればかりは定点がわからないから直接取得しなければならなかったのです。おかげで管轄する三刀屋町(当時、現在は雲南市)へのアプローチができるようになったのです。

 こうして後日、三刀屋町へ連絡いたしました。すると村会長を経由して回答を得ることが出来たのです。それは、

昔悪いことをした家がある

、ソコではないかと…。

 悪いこととはなんだろう?しかし亀太郎の伝承があるという。そこで8月に三刀屋行きを決行することにいたしました。

(つづく)
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10日
 けっきょく眠れずに6:30ころに就寝した模様。

14:30、起床。少し熱っぽい。食事すると汗。風呂に入るとさらに発熱。クーラーの直噴で頭を冷やします(汗)

18:00、家を出ます。きょうは神保町へ行って本の宣伝を行いました。前に好意的な置き方をしていただいた書店でしたのでチラシを置いて参りました。最低でも取次経由で1冊は確保されるでしょう。

 個人的には斎藤一の新刊が出たとか聞き、見るとなし。売れたのでしょう。サークルを運営していると会員の力で本が出る。それも会長の名前で。当然印税は会長のもの。美味しい話です。

19:30、春廼舎へ。前に置いてきた本を回収して「新選組読本~隊士外伝2」を置いてきました。本当は手持ちの1冊しかなかったのですが、釣さんなのでつい販売してしまいました(汗)まぁ、頭のなかには入っているので良いとしましょう。どちらもなにかしらで後発があることですから。

 こんなことも含め、ほかの客の方も含めて四方山話に華が咲き、気付いたら23:00、少しして辞去し、0:00帰宅。

11日
 けっきょくベッドにいても眠れず、たぶん寝れたのは7:00を過ぎていたと思います。

11:00、体調を心配してか、電話が。大丈夫と伝言す。

16:50、起床。

18:00、昨日放映された「砂の器」前編を鑑賞。この作品には思いが深いです。ライの扱いをどうするか?難しいことです。原作は松本清張。なお、原作より野村芳太郎監督作品の「砂の器」が一番面白いと思っています。ハンセン氏病という、現在では伝染病指定を受けていないこの病気をTVでは敬遠していますが、そうなれば「獄門島」の「キちがい」のキーワードと同様、ドラマの根幹が崩れてしまいます。2004年のときには犯人の実父を殺人鬼にしました。これはこれでうまくいったような気はしています。後編が楽しみです。

20:30、汗をかいたので風呂。薬で対処してたので風呂上りが楽でした。

21:00、「砂の器」後編を鑑賞。

23:06、終了。感想としては残念です。何故三木を殺さなければならなかったのかの説明が出来ていません。遍路の父、殺人犯の冤罪を蒙っただけでは無理があり過ぎます。動機が弱すぎます。いままでの作品と違い、実父を死去した原作と同様の設定ならばハンセン氏病でなくてもなにかしらの伝染病にするとか、犯罪を犯した逃亡犯の子とかにしないと殺害の動機にはならないと思います。

 それでもせっかく細かい描写が多く好感が持てたのに残念です。スタッフには絶対鉄道マニアがいるでしょう。特急列車の車輌は大阪の交通科学館に保存されているキハ81を使用しています(売店が写ってました)。また片上鉄道でしたか、兵庫県の保存鉄道なんかも使い、大井川鉄道100%依存ではありませんでした。気合は充分でしたね。

 この作品は本来3月12日に放送される予定が東日本大震災で延期されたものです。ようやく観れたことは嬉しかったです。

 こうして夜は更けていきます。
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 本日はイベントを2つ紹介いたします。

なめがた新選組まつり
10:00 法要 行方市芹沢法眼寺
11:00 史跡めぐり

13:00 イベントいろいろ
16:30 終了予定

 なお一部のイベントでは全国新選組サミット除名団体が関与しているので紹介はこの程度で留めさせていただきます。詳しくは掲示板の方でご確認ください。私は除名団体が深く関わらないイベント部分にのみ参加の予定です。

*9月4日の時点では案内をいただいておりませんでしたので告知はしない予定でしたが、8日に案内が到着しましたので必要部分のみ告知することにいたしました。


全国まちづくりサミットIN木古内
 咸臨丸終焉の地、木古内で催されるイベントです。
9月24日
13:00、咸臨丸終焉140周年記念式典(サラキ岬)
15:00、記念講演会
16:00、咸臨丸まちづくりサミット2011
18:30、交流懇親会
9月25日
12:30、咸臨丸歴史講話
13:00、朗読劇『永久に!!咸臨丸』

 このうち私は24日のまちづくりサミットにパネラーとして出席予定です。

 咸臨丸の方は新選組関係イベントと重なるところがありますが、主催者から案内をいただいたところを優先いたします。


 なお、予定としては私が関与する三十一人会主催の都内史跡めぐり(神田方面)が10月30日(日)に、セミナーが12月11日(日)に催されます。詳細は追って掲示板等でお知らせいたします。

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13:30、結局は同じ。しかし変な汗を掻いています。

 とにかくも食事。食事だけでも少しは回復しました。なんかおかしいです。

 顕著なのはスクーターで少し走らせたときです。必ずといっていいほど熱が出ます。風邪とは少し違うようです。咽鼻にきません。そしてこの症状は今年だけの症状です。ほかにも異常な現象はあるのですが、下世話な内容なので控えます。

 少しして電話が。マス席のお誘いでしたが、残念ながら24日なのでお断りを。この日は木古内のイベントに出席しますので本当に残念です。

 あと近時新聞の校正が届きました。18:30までに校正を送る。

 それと、この記事が上がる日がちょうど震災から半年の節目となりますね。被災された方々には本当に哀悼の意を捧げます。


 そういえば、最近書店に行くと震災関連の本がたくさん売られています。言い方は悪いですがどれも似たり寄ったりです。残酷ですが写真という意味では新潮社系が一歩リードしているようですが、文章は読む気になれません。理由はほとんどがあと出しジャンケンだからです。

 特に大川小学校の件は、本当は採りあげたくなかったのですが一言言いたくなりました。

 まず、誰かの責任にするのはやめていただきたい。生徒も教師も一生懸命避難させる、避難するために懸命でした。結果論で攻めるのは卑怯者の論理です。最近河北新報でバスを待機させていたのに云々というのをメールでいただきました。もしそのバスに乗せて走行中に津波に呑まれたら100%その乗客は溺死します。

 結論ですが当事者以外は責任者探しするのは止めていただきたい。エスカレートすれば○年○組の○×くんの親が迎えに来た分、避難が遅れた。死んだのは○×のせいだ!と論理の飛躍が始まります。本人のせいでなくとも結果論で言えばそういう論理も成り立つ訳です。天災に犯人探しを行うのは異常といえます。

 もう半年が経過しましたが、これから東北は寒い冬を迎えます。一刻も早く仮設住宅での住環境と食事に不自由のない生活へ戻ることを祈念いたします。交通のインフラも早期復旧されることを切に願います。

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