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違う意味で興味を抱かざるを得ない新選組検定ですが、今回2級の問答を拝見しました。
マクロな話は別にして、この問答には学術的に批判できることはいくつかあります。そのうち、学術的に完全否定できるもののみ挙げてみます。
①、Q40の「会津藩お預かり」と呼称
新選組は「京都守護職お預かり」であり、会津藩士になった訳ではありません。会津藩に雇用された事実があるなら読み物を除いて明示していただきたい。京都守護職は幕府が大名に与えた幕府の役職であり、新選組はその組織の非正規雇用集団になります。寺社奉行と感覚は一緒です。また京都所司代の同心が所司代が盟主となる藩の一員でないのと同等です。
②、Q41の問題
芹沢鴨が大和屋を焼き討ちしたという記録は同時代史料、最低5点以上を確認しても、「壬生浪士」と確認できるものはありません。「壬生浪士の噂」と書いて、後日否定した文書は存在します。大事件でしたので、この事件は多くの文書に残されていますが、誰も「壬生浪士組」、あるいは「芹沢」の文字はありません。宮地正人氏の論考で学術的に否定されているものを、問題ある監修の御仁は意固地にやってしまったと言えます。
③、Q69の沖田氏縁者
どこに沖田総司の縁者とする根拠があるのか明示していただきたい。旧櫛羅藩士酒井意誠が弔祭している記録のみしかありません。ちなみに櫛羅藩の京都藩邸は四条大宮で、光縁寺は近隣にありました。
あくまでも2級に限定しました。3級は趣味レベルという認識がありましたので、学術を目指したものではないと考えたからです。①については監修者の基礎的知識(幕府役職集成)がないこと。②は宮地正人に指摘されているにも関わらず固執したこと。③は自身の脳内空間で空想したことを事実化しようとしていること、以上の想定が考えられます。
こうした、基礎学力のない、空想でモノを言う者が監修をするからこういう事件が起こる訳です。なので宮地正人、松浦玲、松尾正人等の学術関係者を入れることを提唱したのですが、これは後世に悪影響を与えること必至です。学術関係者に否定された新選組愛好者(学術関係者はこう蔑称している)を扱うと、こういうことが起きる実例です。
もし、この記事に不満なら、この質問を日野市立新選組のふるさと歴史館にでもご相談ください。この問答に正当性があるかどうか解ることでしょう。
誤った感覚を持つ者が担当していることと、問答に対し、意見等を一切拒絶することに、複数人の良識ある方々が疑問を呈してきた「新選組検定」ですが、もし、増徴して「1級」なるものを作り、宣伝しても、それは
新選組マニア1級
であり、学術的な向上には一切貢献していないことを付記いたします。まぁ、まかり間違ってもココにあるように、履歴書に記載したら、提出先が学術関係であれば、その関係者のなかで冷笑の的とされることは述べておきます。でも、なんか過去に提起したことを気にしたのか、相馬の記述について、相馬主殿(主計)としていたのには失笑しました。
中には監修者と仲良し、あるいは仕事を貰った経験者では書けないことなので、後世に悪影響を与える、という意味で提起します。

よろしければクリックご御力お願いします

マクロな話は別にして、この問答には学術的に批判できることはいくつかあります。そのうち、学術的に完全否定できるもののみ挙げてみます。
①、Q40の「会津藩お預かり」と呼称
新選組は「京都守護職お預かり」であり、会津藩士になった訳ではありません。会津藩に雇用された事実があるなら読み物を除いて明示していただきたい。京都守護職は幕府が大名に与えた幕府の役職であり、新選組はその組織の非正規雇用集団になります。寺社奉行と感覚は一緒です。また京都所司代の同心が所司代が盟主となる藩の一員でないのと同等です。
②、Q41の問題
芹沢鴨が大和屋を焼き討ちしたという記録は同時代史料、最低5点以上を確認しても、「壬生浪士」と確認できるものはありません。「壬生浪士の噂」と書いて、後日否定した文書は存在します。大事件でしたので、この事件は多くの文書に残されていますが、誰も「壬生浪士組」、あるいは「芹沢」の文字はありません。宮地正人氏の論考で学術的に否定されているものを、問題ある監修の御仁は意固地にやってしまったと言えます。
③、Q69の沖田氏縁者
どこに沖田総司の縁者とする根拠があるのか明示していただきたい。旧櫛羅藩士酒井意誠が弔祭している記録のみしかありません。ちなみに櫛羅藩の京都藩邸は四条大宮で、光縁寺は近隣にありました。
あくまでも2級に限定しました。3級は趣味レベルという認識がありましたので、学術を目指したものではないと考えたからです。①については監修者の基礎的知識(幕府役職集成)がないこと。②は宮地正人に指摘されているにも関わらず固執したこと。③は自身の脳内空間で空想したことを事実化しようとしていること、以上の想定が考えられます。
こうした、基礎学力のない、空想でモノを言う者が監修をするからこういう事件が起こる訳です。なので宮地正人、松浦玲、松尾正人等の学術関係者を入れることを提唱したのですが、これは後世に悪影響を与えること必至です。学術関係者に否定された新選組愛好者(学術関係者はこう蔑称している)を扱うと、こういうことが起きる実例です。
もし、この記事に不満なら、この質問を日野市立新選組のふるさと歴史館にでもご相談ください。この問答に正当性があるかどうか解ることでしょう。
誤った感覚を持つ者が担当していることと、問答に対し、意見等を一切拒絶することに、複数人の良識ある方々が疑問を呈してきた「新選組検定」ですが、もし、増徴して「1級」なるものを作り、宣伝しても、それは
新選組マニア1級
であり、学術的な向上には一切貢献していないことを付記いたします。まぁ、まかり間違ってもココにあるように、履歴書に記載したら、提出先が学術関係であれば、その関係者のなかで冷笑の的とされることは述べておきます。でも、なんか過去に提起したことを気にしたのか、相馬の記述について、相馬主殿(主計)としていたのには失笑しました。
中には監修者と仲良し、あるいは仕事を貰った経験者では書けないことなので、後世に悪影響を与える、という意味で提起します。
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18日
10:00、起床。少し眠気が残っています。少々の熱も。
13:00、家を出発。外は雨(汗)急いでカッパを着てお土産品を購入し、コピーの作業を経て北千住へ。ここで階段が込みあったため、目の前で電車を乗り過ごして1本後の地下鉄に乗車。ひさびさの表参道です。
ここで出石藩川崎家のご子孫の対面。挨拶の後、お話をいたします。おおまかな伝承と史料の提供の約束をいただき心強いです。それと面白い縁があることも知りました。為になるお話しも聞けて嬉しく存じます。ありがとうございました。
16:30、北千住着。バイクで出ると雨は止んでました。
すると、

「にゃんだよ!」と申されております。どうやら以前、ほかのネコにマタタビ攻撃しておきながら自分にしてくれなかったことを恨んでいたようです。

では、とマタタビ攻撃しますと「ごめんにゃさい(嬉)」とコンな感じです。今回は不平等はありません。適量をプレゼント。
ということで17:00、帰宅。
帰宅してから購入したCD-Rにデータを移し替えます。画像ファイルをGBでハードに残したくないもので、おかげで300MBくらいまで落とすことが出来ました。しかし、明日の天候によってはまたGBになります(汗)史料は入念に貯めておきたいのです。
19:30、TVを聴きながら「新嶋研究」を読み返す。看護婦時代のとき以外は自我をあまり出さずに「他人事」(こう書くのは失礼かもしれないが、新島襄のこと)を丹念に話しています。
この「新嶋研究」に掲載された記事を見るなかで、やはりクリスチャン精神が八重を包んでおり、ジャンヌダルクのような悲惨な末路を辿った女性ではなく慈愛のマリアだったと痛感しました。
21:00、「運命の人」を鑑賞。いつも観ていた訳ではなかったのですが、「国への挑戦と報復」をドラマとして出してました。是非とも今度は竹島も描いていただきたいものです。
このドラマを観て私の心を痛感することがあり、日記記事以外で1本書く(20日の記事)。
こうして夜は更けていきます。

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10:00、起床。少し眠気が残っています。少々の熱も。
13:00、家を出発。外は雨(汗)急いでカッパを着てお土産品を購入し、コピーの作業を経て北千住へ。ここで階段が込みあったため、目の前で電車を乗り過ごして1本後の地下鉄に乗車。ひさびさの表参道です。
ここで出石藩川崎家のご子孫の対面。挨拶の後、お話をいたします。おおまかな伝承と史料の提供の約束をいただき心強いです。それと面白い縁があることも知りました。為になるお話しも聞けて嬉しく存じます。ありがとうございました。
16:30、北千住着。バイクで出ると雨は止んでました。
すると、
「にゃんだよ!」と申されております。どうやら以前、ほかのネコにマタタビ攻撃しておきながら自分にしてくれなかったことを恨んでいたようです。
では、とマタタビ攻撃しますと「ごめんにゃさい(嬉)」とコンな感じです。今回は不平等はありません。適量をプレゼント。
ということで17:00、帰宅。
帰宅してから購入したCD-Rにデータを移し替えます。画像ファイルをGBでハードに残したくないもので、おかげで300MBくらいまで落とすことが出来ました。しかし、明日の天候によってはまたGBになります(汗)史料は入念に貯めておきたいのです。
19:30、TVを聴きながら「新嶋研究」を読み返す。看護婦時代のとき以外は自我をあまり出さずに「他人事」(こう書くのは失礼かもしれないが、新島襄のこと)を丹念に話しています。
この「新嶋研究」に掲載された記事を見るなかで、やはりクリスチャン精神が八重を包んでおり、ジャンヌダルクのような悲惨な末路を辿った女性ではなく慈愛のマリアだったと痛感しました。
21:00、「運命の人」を鑑賞。いつも観ていた訳ではなかったのですが、「国への挑戦と報復」をドラマとして出してました。是非とも今度は竹島も描いていただきたいものです。
このドラマを観て私の心を痛感することがあり、日記記事以外で1本書く(20日の記事)。
こうして夜は更けていきます。
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17日
10:00、起床。少しお腹の調子が悪い。
さっそく国立公文書館のアーカイヴで小森沢長政の履歴書を探すが該当はなし。残念。それでも明治5年以降、東京にいたことは間違いなさそうなので川崎尚之助の接点は探れる可能性はあり。
午前中に香住の川崎家ご子孫に手紙を送るべくデータを出力…どうもプリンターの様子がおかしい。画像がコンマ単位にズレるので3D状態に。仕方なくモノクロで出力すると1色なので安心と思ったら、どうもスレが入っている(汗)仕方ないのでクリーニングを入念に行いますが、ようやく満足の域に達したのが昼過ぎでOUT。少し休憩。
また電話で川崎家のご子孫へ連絡。ご好意が叶って後日お会いできることに。助かります。
で、再度もう1枚+αで出力してたら途中でトナー切れ(泣)なんとか頑張ってもらい、なんとか出力は成功しました(汗)
このあたりで脳が疲れたらしく横臥。少しして「相棒」の再放送を鑑賞。まだ最終回直前の回を観てないので観たいのですが、暇がありません。
夕方、先日入手した「新島研究」を読む。有用な内容が多いのですが、参考文献で未見のものがあったのですが、横文字なのに少し不安が…。またドノくらい信用してよいのか悩むものもチラホラありました。
夜になり、昨日撮影したデータをパソコンへ入れます。80%は対処できると踏み、これで約30分以上かかります。結果的に145枚もありました。90分以内にこれだけ撮っているのは驚きです。それと手ブレ機能があるので失敗は皆無に近い状態です。もちろん撮りたかったのはもっとあります。
いま気になっているのは山本覚馬の関与がどこにあるかなのですが、少し気になる人物もいます。通説と違う様相を私の思考では巡らしているのでもう少し間接的な証拠が欲しいものです。
21:00、会津の贋金問題を研究する。明治2~4年で約1,250名以上の逮捕者が出ており、百名近く死刑囚が生まれ、ほとんどが現地で処刑されています。さすがに梟首は少なかったようです。明治4年から絞首刑も増え、明治8~9年までいたちごっこが続いています。
要は戊辰戦時に会津藩で贋金&贋札製造所があり、敗戦後、その版が流出した訳です。それを再度コピーしたりして、蔓延したというのが実情です。なかには会津に残された婦女子たちの糊口を凌ぐ資金にも使われたそうですが、明治3年以降になると、藩士たちは斗南へ移住しますので、その置き土産として贋札の版が残されたようです。それらが一般庶民の手で製造され、明治4年の大量処刑によって減少していきます。
福岡藩と違い、製造犯が藩士のアンダーグラウンドでの謂わば「自爆テロ」から庶民の困窮凌ぎ他に変化するため、直接犯が藩首脳ではないため、斗南藩自体に責任が追求されておりません。まぁ、斗南はこの後、外国商人と各地でトラブルを起こして余波がのちの明治政府に及ぶのですが、それは後の話です。
こんな記述を読みながら、0:30に閲覧終了。本格的にはトナーを入手してからになります。
1:30、就寝。

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10:00、起床。少しお腹の調子が悪い。
さっそく国立公文書館のアーカイヴで小森沢長政の履歴書を探すが該当はなし。残念。それでも明治5年以降、東京にいたことは間違いなさそうなので川崎尚之助の接点は探れる可能性はあり。
午前中に香住の川崎家ご子孫に手紙を送るべくデータを出力…どうもプリンターの様子がおかしい。画像がコンマ単位にズレるので3D状態に。仕方なくモノクロで出力すると1色なので安心と思ったら、どうもスレが入っている(汗)仕方ないのでクリーニングを入念に行いますが、ようやく満足の域に達したのが昼過ぎでOUT。少し休憩。
また電話で川崎家のご子孫へ連絡。ご好意が叶って後日お会いできることに。助かります。
で、再度もう1枚+αで出力してたら途中でトナー切れ(泣)なんとか頑張ってもらい、なんとか出力は成功しました(汗)
このあたりで脳が疲れたらしく横臥。少しして「相棒」の再放送を鑑賞。まだ最終回直前の回を観てないので観たいのですが、暇がありません。
夕方、先日入手した「新島研究」を読む。有用な内容が多いのですが、参考文献で未見のものがあったのですが、横文字なのに少し不安が…。またドノくらい信用してよいのか悩むものもチラホラありました。
夜になり、昨日撮影したデータをパソコンへ入れます。80%は対処できると踏み、これで約30分以上かかります。結果的に145枚もありました。90分以内にこれだけ撮っているのは驚きです。それと手ブレ機能があるので失敗は皆無に近い状態です。もちろん撮りたかったのはもっとあります。
いま気になっているのは山本覚馬の関与がどこにあるかなのですが、少し気になる人物もいます。通説と違う様相を私の思考では巡らしているのでもう少し間接的な証拠が欲しいものです。
21:00、会津の贋金問題を研究する。明治2~4年で約1,250名以上の逮捕者が出ており、百名近く死刑囚が生まれ、ほとんどが現地で処刑されています。さすがに梟首は少なかったようです。明治4年から絞首刑も増え、明治8~9年までいたちごっこが続いています。
要は戊辰戦時に会津藩で贋金&贋札製造所があり、敗戦後、その版が流出した訳です。それを再度コピーしたりして、蔓延したというのが実情です。なかには会津に残された婦女子たちの糊口を凌ぐ資金にも使われたそうですが、明治3年以降になると、藩士たちは斗南へ移住しますので、その置き土産として贋札の版が残されたようです。それらが一般庶民の手で製造され、明治4年の大量処刑によって減少していきます。
福岡藩と違い、製造犯が藩士のアンダーグラウンドでの謂わば「自爆テロ」から庶民の困窮凌ぎ他に変化するため、直接犯が藩首脳ではないため、斗南藩自体に責任が追求されておりません。まぁ、斗南はこの後、外国商人と各地でトラブルを起こして余波がのちの明治政府に及ぶのですが、それは後の話です。
こんな記述を読みながら、0:30に閲覧終了。本格的にはトナーを入手してからになります。
1:30、就寝。
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16日
9:30、起床。
ようやく過去のデータが整理できたので、デジカメデータをパソコンに移します。なにせ393枚も撮っておりました。5日間ですから当然といえば当然なのですが、けっこうな量だと思います。
11:30、ようやく全部吸い込んで、ブログ記事に写真を入れていきます。
14:30、各種用事をこなしてから外出。きょうは国立公文書館で調査です。
15:10、国立公文書館に到着。選択したら結構な量になり驚愕します。
17:00、終了。今回も100枚は超えたのではないでしょうか?もちろん間に合っておりません。それだけの量があります。特に若松の明治3~5年の大量殺戮は後の禍根の原因となっているものと感じました。いくつか会津史に詳しい方ならピンと来る有名人もチラホラ。なんかイラク戦争やアフガン戦争の終結以降のレジスタンスを感じました。
あと、山本覚馬についての史料もありました。なんとなく時系列で繋がりましたが、「出仕格」という、いまでいう非正規雇用職員となっています。ですので官員録には載らない人物です。どうも調査していく内に、いままでの概念とは違う一面が見えてくるのですが、これは自分自身で精査する必要がありそうです。
17:00、時間切れということで同所を辞去。来週もう1回リベンジです。また、分館の用審査史料の請求も行おうと考えています。閲覧時期は4月後半以降で良いので、まぁ、慌てずに。埋もれた会津藩士が絶対分館の文書に隠れているような気がしています。要審査ではあっても戸籍がない時代の文書ですから、それと身分的な問題を含まないので、本館の閲覧基準ならクリアすると思っています。どのみち来週です。あとは自宅でも取得できそうなので期待もあります。
17:40、帰宅。
この後、旅行中のデータ393枚の整理を行います。さすがにこれがヒト苦労。適宜、番号やら題名やらを入れていきます。これをしないと、掲載許可を行う際に説明が困難になります。一部は標題が袋に記載がないため、自分自身で古文書の翻訳が必要だったりしましたので時間はずいぶんかかります。目処がついたのは22:00。CD-Rも尽き、新しいデータを吸いこむ余裕がないので本日取得した画像データはパソコンへ移すことは断念しました。
23:30、出版社に画像データをようやく送ります。データが整理できなければ送るのも困難でした。この作業はブログ画像と連動してましたので時間がかかるかかる…。でも、これで出版社に送るすべての画像がクリアしました。これで安堵できます。あとは自身にかかる研究テーマとなります。
1:00、ようやくある程度片付いたので、就寝。

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9:30、起床。
ようやく過去のデータが整理できたので、デジカメデータをパソコンに移します。なにせ393枚も撮っておりました。5日間ですから当然といえば当然なのですが、けっこうな量だと思います。
11:30、ようやく全部吸い込んで、ブログ記事に写真を入れていきます。
14:30、各種用事をこなしてから外出。きょうは国立公文書館で調査です。
15:10、国立公文書館に到着。選択したら結構な量になり驚愕します。
17:00、終了。今回も100枚は超えたのではないでしょうか?もちろん間に合っておりません。それだけの量があります。特に若松の明治3~5年の大量殺戮は後の禍根の原因となっているものと感じました。いくつか会津史に詳しい方ならピンと来る有名人もチラホラ。なんかイラク戦争やアフガン戦争の終結以降のレジスタンスを感じました。
あと、山本覚馬についての史料もありました。なんとなく時系列で繋がりましたが、「出仕格」という、いまでいう非正規雇用職員となっています。ですので官員録には載らない人物です。どうも調査していく内に、いままでの概念とは違う一面が見えてくるのですが、これは自分自身で精査する必要がありそうです。
17:00、時間切れということで同所を辞去。来週もう1回リベンジです。また、分館の用審査史料の請求も行おうと考えています。閲覧時期は4月後半以降で良いので、まぁ、慌てずに。埋もれた会津藩士が絶対分館の文書に隠れているような気がしています。要審査ではあっても戸籍がない時代の文書ですから、それと身分的な問題を含まないので、本館の閲覧基準ならクリアすると思っています。どのみち来週です。あとは自宅でも取得できそうなので期待もあります。
17:40、帰宅。
この後、旅行中のデータ393枚の整理を行います。さすがにこれがヒト苦労。適宜、番号やら題名やらを入れていきます。これをしないと、掲載許可を行う際に説明が困難になります。一部は標題が袋に記載がないため、自分自身で古文書の翻訳が必要だったりしましたので時間はずいぶんかかります。目処がついたのは22:00。CD-Rも尽き、新しいデータを吸いこむ余裕がないので本日取得した画像データはパソコンへ移すことは断念しました。
23:30、出版社に画像データをようやく送ります。データが整理できなければ送るのも困難でした。この作業はブログ画像と連動してましたので時間がかかるかかる…。でも、これで出版社に送るすべての画像がクリアしました。これで安堵できます。あとは自身にかかる研究テーマとなります。
1:00、ようやくある程度片付いたので、就寝。
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18日、TBSの「運命の人」を観ました。沖縄返還の密約問題を山崎豊子が小説化したものです。登場する人物はほぼ実在する者で、山部記者は渡辺恒雄をモデルにしたことで本人からクレームがつくというエピソードも生まれました。
私の一家の墓所の向かいには石川啄木一族の墓所があります。あの「一握の砂」で有名になった啄木です。私は自分のことを「一握の砂」と思っています。
私はある方から「あさくらさんは歴史研究家というよりジャーナリストだ」と言われたことがあります。真実が闇に隠蔽されたことを暴いたこともあり、2010年の「千葉さな結婚報道」は正に衝撃を与えたと思います。
それも今頃、揺り返しが起きているのも事実です。あったとしても入手不可能の戸籍がないことが良いことに、「証拠がない」と騒ぐ輩もおります。こうして真実を捻じ曲げる人物は往々にして現れることがあります。ましてやこれが官庁、組織であればなおさら隠蔽に走ることがあります。
昨年、東京都情報公開条例の9条を楯に公開請求を行ったところ、御用学者で固められたチームに加え、都庁側からは暗に「認めてはならない」と因果を含めた議事資料を配布して、理論上通るものを通らなくされたことがあります。結論的には意表を尽く別の作戦により閲覧が可能とはなりましたが、あくまでも公明な路線での公開ではありません。
ただ、閲覧が困難な史料や困難な調査を乗り超えたことが幾つもあるということは私の誇りでもあり、これからも変わらないポリシーです。
いま、私が取り組んでいるのは「新島八重を歩く」ですが、これもすでにすべて原稿は入稿されておりあとはゲラ待ちという段階まで来ております。なのでココに書くべきものはすべて終了しております。
実は、いま、単著で山本八重と覚馬、川崎尚之助のことを書こうと史料を収集しております。これは話しを進めているところがあり、原稿を書く前段階、つまり史料不足と感じているところから、鋭意史料の入手を行っているところです。
この作品でいま、そのなかで苦悩を抱えているのが「会津の戦後」です。過去に友人が同人誌で指弾しておりましたが、どうも疑問点がありました。
先に会津の歴史を例えるなら、「まぶしいばかりの光を放つ歴史」が主流となっています。しかし、それを「否」と例える一群もいるのも事実です。光が足りないからより多くの光りを放てるようにデコレーションしたのが、レジスタンサーが唱える「会津観光史学」な訳です。
ただ、ここで考えていただきたいのですが、Aという人が文章を書く。気に入らないのでBがAを批判する。しかし、CもBが気に入らないとして批判する。
ここに現れているのは批判だけであり、真実の追究もマクロで留まり、全体を俯瞰する歴史が構成されていない。当然Aも批判されているのであるからデコレーションによって批判を浴びている訳でこれも真実ではない。
戦争というものは外戦でも内戦でも実際に人が傷つき、加害者もいれば被害者もいます。直接加害者の正義は勝者にある場合が多い。被害者は勝者には文句は言えません。しかし、これを観光というポジティヴな御旗を用いることで勝者への抵抗を行う。つまり、こうした内容のものは直接の関係者が述べるのは、その部分だけを証言するに留め、それを構成する者に委ねなければいつまでも正しいものは構成されません。「観光」という名目を使用した批判に過ぎません。
今回、会津の戦後を考えたとき、隠してはならない「贋金問題」を隠蔽しました。実は贋金を作ったものにも「レジスタンスの正義」である者もおり、しかし、それは正に正邪を兼ね備える「諸刃の剣」であり、当然、便乗する悪人も現れます。しかし、その悪人と正義の者が同一視されるのは当然のことで、一方を隠すならもう一方を隠さなければいけない、ジレンマを抱え、結論的に隠蔽したのは隠しようがない真実です。
もちろん、ここにいう「正義」とは敗者による正義であり、勝者にとっての正義ではありません。勝者はその正義を認めざるを得なく、一部を処刑しながらも、懐柔策に出ます。しかし、すでに奔流された川の流れは震災で発生した津波の如く抑えようがない勢いであり、そこに対抗措置が生まれ、結果的に数十人規模の虐殺と呼べるほどの処刑が行わる訳です。これは若松民政局内部で行われ、国事犯とは分離されたため、「見せしめ」を確実に実行することにより、強制的に罰則を印象付けることに成功します。
しかし、なかには本当に処刑にたる人物もいたか、という疑問も発生します。贋金といっても、「製造」、「幇助」、「使用」と3つの罪が存在します。「使用」しなくとも、家にあった金がたまたま贋札だということで咎められる人物もおり、命を奪われなくとも拘禁された無辜の人たちを生んだ部分もあったと思われます。
こうしたレジスタンスたちの正義から始まり、便乗により悪化し、その征圧による殺戮で結末を見るという会津の戦後は丁寧に扱わなければどの側からも誤解を受ける可能性があります。
なので、そうした歴史を丁寧に少ない脳みそに叩き込み、噛み砕くように説明して歴史を伝える必要があると考えます。
それが山本八重が見た会津の戦後でもあり、八重一家が会津を離れる結果にも結びつくからと考えるからです。
当然、私が運良く単著を出せたとしても、たぶん世の歴史のなかからは亜流扱いされることでしょう。しかし、読んだ読者の1%でも共感していただけたなら、それはそれで「一握の砂」の私が伝えることに成功したことになるでしょう。
一握の砂……。この砂粒が維新史の歴史に僅かながらでも波紋を呼べればと考えながら、白髪を増やして頑張りたいと思います。

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私の一家の墓所の向かいには石川啄木一族の墓所があります。あの「一握の砂」で有名になった啄木です。私は自分のことを「一握の砂」と思っています。
私はある方から「あさくらさんは歴史研究家というよりジャーナリストだ」と言われたことがあります。真実が闇に隠蔽されたことを暴いたこともあり、2010年の「千葉さな結婚報道」は正に衝撃を与えたと思います。
それも今頃、揺り返しが起きているのも事実です。あったとしても入手不可能の戸籍がないことが良いことに、「証拠がない」と騒ぐ輩もおります。こうして真実を捻じ曲げる人物は往々にして現れることがあります。ましてやこれが官庁、組織であればなおさら隠蔽に走ることがあります。
昨年、東京都情報公開条例の9条を楯に公開請求を行ったところ、御用学者で固められたチームに加え、都庁側からは暗に「認めてはならない」と因果を含めた議事資料を配布して、理論上通るものを通らなくされたことがあります。結論的には意表を尽く別の作戦により閲覧が可能とはなりましたが、あくまでも公明な路線での公開ではありません。
ただ、閲覧が困難な史料や困難な調査を乗り超えたことが幾つもあるということは私の誇りでもあり、これからも変わらないポリシーです。
いま、私が取り組んでいるのは「新島八重を歩く」ですが、これもすでにすべて原稿は入稿されておりあとはゲラ待ちという段階まで来ております。なのでココに書くべきものはすべて終了しております。
実は、いま、単著で山本八重と覚馬、川崎尚之助のことを書こうと史料を収集しております。これは話しを進めているところがあり、原稿を書く前段階、つまり史料不足と感じているところから、鋭意史料の入手を行っているところです。
この作品でいま、そのなかで苦悩を抱えているのが「会津の戦後」です。過去に友人が同人誌で指弾しておりましたが、どうも疑問点がありました。
先に会津の歴史を例えるなら、「まぶしいばかりの光を放つ歴史」が主流となっています。しかし、それを「否」と例える一群もいるのも事実です。光が足りないからより多くの光りを放てるようにデコレーションしたのが、レジスタンサーが唱える「会津観光史学」な訳です。
ただ、ここで考えていただきたいのですが、Aという人が文章を書く。気に入らないのでBがAを批判する。しかし、CもBが気に入らないとして批判する。
ここに現れているのは批判だけであり、真実の追究もマクロで留まり、全体を俯瞰する歴史が構成されていない。当然Aも批判されているのであるからデコレーションによって批判を浴びている訳でこれも真実ではない。
戦争というものは外戦でも内戦でも実際に人が傷つき、加害者もいれば被害者もいます。直接加害者の正義は勝者にある場合が多い。被害者は勝者には文句は言えません。しかし、これを観光というポジティヴな御旗を用いることで勝者への抵抗を行う。つまり、こうした内容のものは直接の関係者が述べるのは、その部分だけを証言するに留め、それを構成する者に委ねなければいつまでも正しいものは構成されません。「観光」という名目を使用した批判に過ぎません。
今回、会津の戦後を考えたとき、隠してはならない「贋金問題」を隠蔽しました。実は贋金を作ったものにも「レジスタンスの正義」である者もおり、しかし、それは正に正邪を兼ね備える「諸刃の剣」であり、当然、便乗する悪人も現れます。しかし、その悪人と正義の者が同一視されるのは当然のことで、一方を隠すならもう一方を隠さなければいけない、ジレンマを抱え、結論的に隠蔽したのは隠しようがない真実です。
もちろん、ここにいう「正義」とは敗者による正義であり、勝者にとっての正義ではありません。勝者はその正義を認めざるを得なく、一部を処刑しながらも、懐柔策に出ます。しかし、すでに奔流された川の流れは震災で発生した津波の如く抑えようがない勢いであり、そこに対抗措置が生まれ、結果的に数十人規模の虐殺と呼べるほどの処刑が行わる訳です。これは若松民政局内部で行われ、国事犯とは分離されたため、「見せしめ」を確実に実行することにより、強制的に罰則を印象付けることに成功します。
しかし、なかには本当に処刑にたる人物もいたか、という疑問も発生します。贋金といっても、「製造」、「幇助」、「使用」と3つの罪が存在します。「使用」しなくとも、家にあった金がたまたま贋札だということで咎められる人物もおり、命を奪われなくとも拘禁された無辜の人たちを生んだ部分もあったと思われます。
こうしたレジスタンスたちの正義から始まり、便乗により悪化し、その征圧による殺戮で結末を見るという会津の戦後は丁寧に扱わなければどの側からも誤解を受ける可能性があります。
なので、そうした歴史を丁寧に少ない脳みそに叩き込み、噛み砕くように説明して歴史を伝える必要があると考えます。
それが山本八重が見た会津の戦後でもあり、八重一家が会津を離れる結果にも結びつくからと考えるからです。
当然、私が運良く単著を出せたとしても、たぶん世の歴史のなかからは亜流扱いされることでしょう。しかし、読んだ読者の1%でも共感していただけたなら、それはそれで「一握の砂」の私が伝えることに成功したことになるでしょう。
一握の砂……。この砂粒が維新史の歴史に僅かながらでも波紋を呼べればと考えながら、白髪を増やして頑張りたいと思います。
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